人が生きるために不可欠な要素「直観」「持続」ベルクソンからドゥルーズへ。

VEN WORK MAGAZINE / 未分類

人が生きるために不可欠な要素「直観」「持続」ベルクソンからドゥルーズへ。

私たち(ベンワークウェアの松本とフリーパーソナルトレーナー萩原)のこの記事で展開しているスタイルの起源は、当初古代ギリシアの哲学者プラトンの対話篇にならってスタートしました。

プラトンの著書、「メノン」は、ソクラテスが発言した弁証を弟子であるプラトンが残したとされています。時代にして、紀元前402年の設定で、そこに登場するのは、ソクラテス67歳頃、貴族の子孫のメノン、アニュトスという富裕市民の三者が出てきます。

この著書の中で、ソクラテスはメノンに徳を伝えていくという問答方式のやりとりが最終文体まで続きます。
私たちは、徳を伝えるということではなく、この対話する実践の価値と必要性を感じ、ビジネスやお金、そこから拡張された資本主義に至るまで、私たち自身の哲学的介入の実践のために、この「メノン」の対話という方法に目をつけたのでした。

私たちは、徳について知るはずはなく、その徳がどう作用するかより、哲学的な実践をこのビジネスとお金で縛られているこの社会から目線を外さなければ、このまま生きることに価値はないなと焦燥感に陥った私たちの思考を脱構築するためでした。

そして、記事をまとめていく中で、西洋哲学を同時進行で書物を探しあさり、仕事もしなければならないという時間的制約の中で、多くの西洋哲学者に書物を通じて出会いました。

そんな劇的な出会いという偶発的現象は、私たちに素晴らしい哲学者に出会うことができたのです。
その名は、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリというフランスの哲学者です。

彼らの書物に心を寄せ、私たちの主観と客観の置き場をためらうように、彼らに近づきたいと思う衝動は、彼らがどのように日常的な事象に視野を広げたのかに着目するようになっていったのです。

ドゥルーズは主に哲学を実践していましたが、自身の哲学的な思索に限界を感じており、当時夢作用から無意識の世界を心にある自我という空間を説いたジークムント・フロイトの精神分析に疑問を持っていましたが、ドゥルーズはそこをどうやっても脱構築することができませんでした。そのような熱い思いは、運命的な出会いをドゥルーズにもたらし、精神科医のガタリと出会い、共作というスタイルで、著書を記述し、その代表作として、「千のプラトー」「アンチオイディプス」を記述し、哲学の無機質で、生物的、物理化学的なところを説くことができたのでした。

私たちは、このドゥルーズの哲学に目を向け、私たちが実践すべき日常的な哲学もさながら、ドゥルーズの哲学をもドゥルーズを超えるぐらいに、エクリチュールの中に潜り込まなければと思い、今もそれが継続しているのですが、ドゥルーズも私たちと同じように、ドゥルーズより以前の西洋哲学を脱構築していったのです。

その中で、ドゥルーズが脱構築したアンリ・ベルクソンというフランスの哲学者がいました。
ドゥルーズはベルクソンについての著書「ベルクソンの哲学」も出版しています。

今回の記事は、ドゥルーズが脱構築し、とても丁寧に解き明かしたベルクソンについてをテーマに見ていこうと思います。

 

ドゥルーズからベルクソンへ「直観」について

ベルクソンが行った哲学の方法は、直観を活用しました。
私たちが現実に直観という感覚を活用しているのでしょうか?

直観が私たちが行う意識であったり、思考、行動、反省などにどれだけ作用しているのかは、分からないまま生きています。

今の世の中は、哲学性よりも科学性が中心で動いていますので、直観という作用よりは意識して思考するというような認識が主であると言えるでしょう。

ベルクソンは哲学を直観という方法で行ったのですが、科学性から哲学性に回帰させるためには、このベルクソンの直観は、哲学を知るために価値のある定義になると思われます。

そのベルクソンの直観には厳密な規則があるのです。

ベルクソンが理解しているものとしての直観は、すでに持続を前提としているという事実です。
この持続というのは、どのようなものなのか。

ベルクソンは自身の哲学を構成するために、直観を使った理由は、ベルクソンが哲学に概念とされたこの持続という作用を先に見つけ、その前提のために直観を使ったという前後関係があるのです。

私たちはこの事実を、これからのために概念化する哲学のために生かすことができます。
ベルクソンがいう直観は、

直観はしばしば単純な行動として示している。
単純性は質的・潜在的な多様性と、それが現実化される場であるさまざまな方向とを排除するものではない。
この意味において直観には、複数の受容の仕方と、他のものに還元できない多様な視点が含まれてる。

このベルクソンから直観を知ったドゥルーズは、自身の哲学性に大きな一歩を踏み出せたとされます。

哲学と聞くと、気難しいイメージが自ずと出でしまいますが、そう思われるのは、哲学と心理、科学が混合されて考えてしまうからです。

本質的に、私たちが生きることそのものに内在されているのは、哲学だけであります。
心理学や科学というのは、私たちの中に潜在的にあるのではなく、必ず外部という他の媒体を通じています(物事、アイテム、情報、マスメディア、権威のある学問など)。

このような見方を古代ギリシャからデカルト、カント、ヘーゲルにおける西洋哲学の歴史はこの認識を強めていました。
すなわち、それはベルクソンが哲学の方法として活用した直観とは反対側にある方法が認識となるのです。
ドゥルーズは当然、その認識の不適切な外部性についての懐疑は常に持っていました。

私たちもそうですが、何かを考えるときに自分を見ようとすると必ず、他者やその多数の同士、会社の同僚や同世代などの外部を通じて考えてしまう傾向にあるのです。

自分と言われても、私は私の中にあるのは分かっても、それを実践として自分を生かそうとするには、自分は目の前にいないため、どうしても思考を止めてしまうか、思考はするけれど、そうした分かりやすい対象に立てて、そこから自分を説いたつもりになっていることが往々にしてあるのです。

ベルクソンの直観は、至って単純性であると言いました。
単純性の内在には、質的、潜在的な多様性があるとベルクソンは言っています。
この要素(エレメント)の質的、潜在的の部分が私たち人間のこれから続く生命の道のりに十分活かせるものとなると思われます。

この単純化の要素をもう少し見てみたいと思います。
現実社会はマスメディアや経済活動を行うために製造された製品、マーケットに立たせれば、それ商品に化合されます。
そして、それを売るためにサービスによって、私たちが消費者である立場なら、ようやくその商品が自分のものとなるのですが、そうなるまでにさまざまな段階を経由しなければならないこと、この経済活動でお金を得て、生活するという空間は、極めて複雑な階層があります。

その上、人間には思考、感情、欲求があり、高次な脳はそれらを統合し、認識や価値基準を作ります。
今までの記事にもたくさん取り上げてきましたが、西洋哲学では古代から、神話に人間の起源を同一化し、約19世紀まで、現前する(生まれる前から人間化させた規定があるという認識と意識、アプリオリとも言います)人間化がすべてだと考え、生きてきたことを見てみると、ありのままを見るために、今挙げました階層を脱構築しなければ、真実に辿りつけないことになります。

そこで、このベルクソンの単純化が重要な要素となります。
単純化に内在された質的、潜在的が哲学の根本の構造になるのです。

 

IMG_2988

 

 

このことを考えますと、私たちが日常的に考えている仕事やプライベートでの思考は、この単純化がなければ、複雑なアプリオリに侵入していくリスクが、すでに何かを思った時点で、ベルクソンの単純化は活かせないとなってしまうのです。

直観は認識よりも、もっと単純なものであるのです。ベルクソンが使った直観は、現実化されているものをさまざま方向から見ることをそのままにしている状態を現しているのです。

私たちが、今の時間を単純化するには、どのようにすればいいのでしょうか?
これだけ複雑な社会、経済活動の拠点であるマーケットで運営され、そこに応じた人間化された現代人を演じさせられています。

すぐにベルクソンの単純化を取り入れることは、不可能に近いでしょう。
しかし、私たちはこのまま複雑な社会に適応するのは、今までと同じ歴史観に導かれたアプリオリは、歴史を繰り返して、世界を組織化した支配層が考える秩序が中心になるのなら、また利に即した正当化された戦争やテロに繋がっていくため、ベルクソンをドゥルーズから知らなければならないのです。

 

ベルクソンの単純化の方法の規則を規定する3種類の行動

第一の規則:問題そのもののなかで真偽の検証を行ない、にせの問題を否定し、問題のレベルにおいて真理と創造を調和させる。

第二の規則:幻想とたたかい、真の質的差異または実在の区分を見い出す。

第三の規則:空間によってではなく、むしろ時間によって問題を提起し、解決する。

この三つが直観の規則:を規定する行動だとベルクソンは挙げています。
私たちは複雑化された世界(社会)に慣れ、そこに神経細胞は形を変えてしまっています。

いきなり、難しそうになると、言葉を解釈することで疲れてきますので、この単純化の三つの行動に関するベルクソンの帰結を先に申し上げておきますと、次のようになります。
要は、ベルクソンは何が言いたかったのかです。

 

したがって、直観は、その三つの規則とともに、ひとつの方法を十分に形成している。それは本質的に、問題を提起し(にせの問題の批判と、真の問題の作成)、差異化し(切断と分割)、時間化する(持続を媒介として考える)方法である。

 

たいへん難しいので、完全に理解する必要はありません。理解よりも、新しい見方として、私たちの過去の時間、記憶、価値基準を揺らし、その中に生まれる差異(ズレ、襞、気づき、反省、フィードバック)に内部運動がそのようになればいいのです。

ベルクソンがいうことは、明瞭なまで、私たちを取り巻く現実に驚くべき一致が見られるのです。

ベルクソンは、三つの規則を上記に挙げましたが、第一の規則に入れているのが、にせの問題を見分けるようにと伝えています。
たとえば、私たちは生活するうえで、この現代はマスメディアが大きく発展いたしました。
自明のように、インターネットは生活の中に十分過ぎるほどに、内在しつつあります。

私たちは、”私”、”他者”、”大衆”、”群衆”などの人間をカテゴライズする区分を伝える媒体が発展したため、ネットから出会った情報を信じていいのかどうかを真偽する間もなく、視覚に入ったまま、それを勝手の価値基準に導入してしまってします。

(ネットの威力は人の命を奪う事実が、2014年の理研の笹井芳樹副センター長が自殺である。これは、当時NHKがSTAP細胞問題を追及した「調査報告 不正の深層」における、違法な個人メールの公開報道などが、自殺の引き金になり、それをネットも加担し、ネットによるメディアバッシング、メディアリンチ、メディアテロが、笹井芳樹、小保方春子氏にも繰り返されたためだとさせる。さらにそこから深い意味があるのは、このSTAP細胞は適切だったという真実である。実は、アメリカの仕掛けにより、STAP細胞の科学は見事にそのままアメリカ、ハーバードに取られたという説がある。これはNHKや日本の外交、アメリカとの問題もあるけれど、ベルクソンが三つの行動の規則に挙げている、にせの情報なのかどうかを問う思考が私たちに完全に欠落していることにあるのだと、私は考えている)
 

IMG_2970

 

科学が時代を先導するように横行する現実に、どこと無く、何もかもを原因と結果にすべてがあるとしたいマスメディアと私たちの生活が、まるで焦るように行動と思考まで形を変えられてしまっています。

ベルクソンは、真偽と問うことも、それをすればすぐに問題が解決されるというものではないといいます。
問題を解決するために真偽を問うのではないのです。
最初にやるべきなのが、真偽を使ってにせの情報なのかどうかをすることから始まっていくのです。

すぐに問題を解決したいと考えるのは、社会が作った偏見です。

ベルクソンは哲学をするために、直観を使います。
問題そのもののなかで真偽の検証を行なうことを最優先にしたのは、ドゥルーズの哲学の実践を見ても分かるように、ベルクソンの哲学の実践を模倣していますので、ベルクソンは自身以前の哲学者を問うことからスタートさせたのだろうと推測できます。

これは学校生活においてもこの偏見は持続されていて、学校生活で提示される問題はあたかも全部出来上がった問題のように見せ、それが子供に与えられている。
そのにせの問題を子供は問題だと考えてしまい、にせの問題のまま、その解決に追われていきます。

つまり、問題を<与える>のは、学校の先生であり、生徒の仕事は解決を発見することなのです。
それによって私たちは、一種の隷属状態に置かれてしまうのです。

この真偽を問い、にせの状態かどうかを見つけるのは、この過程でもう哲学になっているとベルクソンは言っています。
そしてこの過程に私たちが社会の隷属状態から真の自由になることを通過し、それは問題そのものを決定し構成する能力のなかにある。

 

IMG_2971

 

ベルクソンは、それまでのキリスト教が人を人類から人間に変えていき、神的なものが問題を固定し規定している過去から今を認めつつ、たとえにせの問題を問題として真偽させることだけでも、真の問題の創造的な現れも同じように含んでる、と考えています。

すなわち、私たちは学校生活でにせの問題を抱えさせ、その問題解決にほとんどの時間を拘束されます。
家に帰っても、親からは学校生活で持たされた問題と同じ問題提議により、子供の対応します。
家で、テレビを見ると、同じようなにせの問題を問題のように、子供に垂れかかります。

これは、ベルクソンまでの人たちが神的な問題で人間を規定してきたように、私たちの生活も神的なものと同じような構造と機能を持っていると考えられます。

ベルクソンからドゥルーズへ。
脱構築することで、にせの問題なのかを真偽した。
哲学というと、物事を問い、問題解決のイメージがある。
問題がにせかどうかを真偽するだけで、十分な哲学になっている。

ベルクソンを通じて、前後関係を逆に見ることができます。
人間の歴史を見ていくと、歴史をたえず作ろうとしてきた過去があります。
歴史は地政学的要素が出来事による真実性を含みましたが、人間はそれを見えないところに押しやり、歴史を構成してきた。

歴史は問題を構成してきました。理論の視点からも実践の視点からも、人間の歴史は問題の構成の歴史であります。
そこにおいて人間は歴史を作っており、このような活動の意識を把握することは自由を征服するようなものであるのです。

私たちが思っている問題は問題ではありません。問題という構造は機能として解決するために内部運動を活動させることになるのですが、問題だけが重要なのではなく、問題の解決が大切ではあるのですが、その運動にはそのとき、それにふさわしい解決があるのであって、社会や学校がその解決の段階まで規定されるものではありません。

ようは、問題があらかじめ存在している解決の影のようなものであるのではありません
今、ベルクソンの直観を分かりやすく脱構築をしていますが、哲学は問題を構成するものであると言えますが、解決が先に規定されたものに問題を課するのは、真の問題ではなく、むしろ人間の思考での世の中の見方から自由を拘束していることになるというのです。

これは、私たちが行ってる仕事を通した経済活動にも言えることです。
物を売るために戦略を立てていきますが、そこを問題とするのはいいのですが、「物を売るためにはこれしかない」という解決を理論立てて、問題を解くのなら、それは哲学ではないと言えるのです。

仕事において発生する問題に真偽を入れ、解決のない状態に問題を独立させること、これが重要だと言えます。
ベルクソンがいう、にせかどうか真偽を問うところは、問題を問題として独立させ、立てたなら、自然に解決に変換する運動性になっていくものだということを説いています。

 

問題は解決するためにある。
そのように構成されている。
にせの問題とは、解決が先に規定された拘束で問題化させていることをいう。
その例が、人間が作った歴史である。
歴史は、人間をアプリオリに規定した解決を持たせたまま歴史を作ってきた。
これでは、歴史は問題を自然に解決する方向には動いていかない。

 

哲学においても、その他の場合でも、問題を解決する以上に、問題を発見すること、したがって問題を提起することが重要だというのが真実である。なぜならば、思弁的問題は、提起されれば解決されるからである。つまり、解決は隠され、いわば覆われていても、ただちにそこにそこに存在しているのである。あとは、ただ覆いを取る(発見する)だけである。しかし、問題を提起するとは、単に発見することではなく、創造することである。発見は、現実的にせよ潜在的にせよ、すでに存在しているものについてなされる。したがって発見は、遅かれ早かれかならずやってきたのである。これに反して、創造は今までになかったものに存在を与えるのであって、それはけっしてなされないこともあるのだ。すでに数学において、また形而上学においても、創造の努力は最もしばしば問題を惹起すること、問題が提起される場としての項を作ることである。問題を立てることとそれを解決することは、ここではほとんど価値を持っている。本当に大きな問題が提起されるのは、それが解決されるときにほかならない。

この記述は、ベルクソンのテクストからの引用です。この記述がベルクソンが最も言いたかったことであのです。同じようなこの問題提起について、マルクスも言っていました。

マルクスは、「人類は解決できる問題だけを提起する」と言っていました。マルクスに関しては、共産主義の権力の威力とマルクスのこの言葉が誤った形で結束をしてしまい、暴走してしまいました。

この言葉は、ベルクソンとマルクスは同一視しており、今まで申し上げてきたように、問題を見つけ、発見し、そこで私たちが自ら提起することが大切なのです。

解決は、問題が適切に内在平面に立っているなら、問題は問題に内在する運動性によって解決するのです。
マルクスは問題を生産に向けたのですが、そこに社会の退廃した否定された運動性にプラスされ、問題発見ではなく、社会、政府、国民、大衆は問題に思弁的思考を入れてしまい、問題を固定してしまったのです。

思弁的思考は、古代ギリシャ、古代ローマ、そしてアウグスティヌスによるヘブライ語の聖書解読と、多様性を失った状態で、ドゥルーズが哲学的問題にたえず行なってきた「一」と「多」の分解と同じく、数学と形而上学が切り離せなくなり、人間の問題は決して創造され、それによる惹起ではなく、解決するために問題を作ったという不適切な実践を繰り返してしまったのです。

 

ベルクソンの哲学性と誤った他の哲学者の哲学性

 

ベルクソン以前に誕生した多くの他の哲学者が何を哲学に含めてしまったのでしょうか。
私たちは、哲学について知らずに生きてきましたし、もちろん哲学史についているはずもありません。

お読み頂いている方に、分かりやすくするために、このような文脈を分かりやすくするために、哲学史をこちらから提起しますが、ベルクソンが哲学史に残る功績を残した哲学者です。

それまでの、哲学のほとんどは、過去を引き継いだ理論を継承しただけでした。
ベルクソンは、そうはしなかったのです。当たり前に行われているだろうとする内部運動に目を向けたのです。

それまでの哲学は、人間の内部を見ることはなく、人間と物事との関連を見つけようとした取り組みでした。
ベルクソンは、人間の中にあるそれまでは誰もできなかった説明不能とした、直観、持続、記憶に向け、外部にある物事ではなく人間内部にある物質に分離した最初の哲学者です。

ここからが、私たちが哲学的実践を通して現実を見て、私たちから見える未来に対する創造に活かせる話をします。

ベルクソンを知れば、ドゥルーズを知ることになり、古代ギリシャや古代ローマ、キリスト教、現在まで続く資本主義の構造と機能まで分かることが可能となって、あなた自身の創造された自身で発見した問題を見つけ出すことができるだろうと思われます。

ベルクソンとそれまでの哲学者が違っていたのは、そのままの文脈の展開のままになりますが、問題の立て方に違いがあります。

私たちは、今の歴史区分の現代に属しながら生産活動をしながら生きています。
私たちにも哲学を持ちながら生きていますが、私たちが創造して惹起した哲学性ではなく、社会に残っていた哲学の一部を哲学として、少しばかりそれを認識し、社会常識にして生きています。

私たちが少しばかり知っている哲学は、ベルクソンの哲学とベルクソンが誕生する以前の哲学のどちらを哲学として使っているのでしょうか?

その答えは、ベルクソンではない、それ以前の哲学を哲学として、世の中を見て、物事を解釈しています。
私たちは、この現代に生きておきながら、現代の哲学ではなく、古代ギリシャから長く続き、ベルクソンからドゥルーズの時代変化で脱構築され、新しいものの見方が誕生しているのに、私たちは学校生活の隷属となり続けたことで、新しい哲学を知らないのです。

時代は変化を続けるというのは、自然界では周知するどころか、そのままの現象でありますが、私たちは人間であり続けようとする信仰的な思弁性で、人間は変わらないものだと判断し、解釈しています。

このような自然よりも人間が高等であるという、過大広告のような詐欺まがいの思考(ベルクソンの哲学では、このような不適切な思考も、にせのものなのかどうかを真偽させることで、新しい思考にすべきだと言ってくれるでしょう。それを、ベルクソンの書物や文献から脱構築し、内在平面に立たせる実践のために、この記事の目的であります。)

ひとつの問題が提起されてあれば、その解決と関連させて真偽を規定するのは比較的容易であるとしても、真偽の問題の提起そのものに適用するときには、真偽が何から成るのかを言うことは、はるかに困難であるのです。

解決を先に立てることに真偽を行なうのは分かりやすいです。
(なぜなら、解決の解答を先に持ったまま真偽かどうかを考えるのは、導かれるのはひとつのみち道しか与えられていないため、容易になります。今の仕事や会社を辞めようとする最終決断は、会社を辞める理由を事前に用意していますので、そこから問題を立てても、辞めることは変わることなく、そこに真偽を与えても真となる方向になるのは、必然となってしまいます。これが、ベルクソン以前の哲学で、今も私たちは続けてしまっています。)

多くの哲学者はこうした循環のなかに陥っていて、過去の哲学的遺産を意識し過ぎていたのでしょう。
私たちは、この現代には自由に見える空間多少なりともあって、ベルクソン以前の西洋、すなわち古代ギリシャやキリスト教のアプリオリを乗り越えるには、それなりの時間は必要だったのだと思えます。

そこを理解したうえで、ベルクソン以前の哲学者は、解決の彼方、問題そのもののなかで真偽の検証をする必要があることを意識しているために、ひとつの問題が真であるか偽でであるかを、それが解決できるかできないかによって規定することで満足していたのです。

ベルクソンは違っていました。
ベルクソンのすぐれた点は、ほかの哲学者とは反対に、<にせの問題>という表現のなかに偽の内在的規定を試みたことにあります。

私たちの現状に置き換えてみますと、私たちのもとに流れてくる情報を見て、そのまま問うことなく流されるか、もしくは情報に真実性がないと思えば、その情報を否定していくと思われます。

そのままでいるなら、古代ギリシャの哲学のまま世の中を見ていることと同化します。
ベルクソン的な対応、介入、実践が私たちの時代は、今時代の過渡期を迎えているため、いかにしてベルクソンの直観を知るのかが重要なのです。

私たちが見ているマスメディアで氾濫する情報を<にせの情報>として扱うのです。
これは、なかなかできないもので、情報に依存し、思考は真偽を問うことに恐怖感を持ち、これもマスメディアの戦略なのですが、<にせの情報>にして直線的に真偽を問えばいいのです。

すると、最初に挙げた第一の一般的規則に補足が出てきます。
このような発展は、ベルクソンが真剣に目の前を見る意識を直観を活かしているからです。

その補足をお伝えしますと、

にせの問題には二種類ある。ひとつは<存在しない問題>であって、それは関係項自体が<多>と<少>の混乱を含んでいることによって規定されている。もうひとつは、<提起の仕方のよくない問題>であり、これはその関係項がよくない分析をされている混合物を表象しているということによって規定されている。

ベルクソンはどんどんこうして、一と多をひとつに総合化するそれまでの形而上学と闘っています。
にせの問題かどうかを真偽すると、そのなかにも、二つの種類があるというのです。
これが、哲学的介入による現実的、潜在的、質的な脱構築です。
私たちは、この展開を段階的に模倣をしながら、あなた自身の直観で見ていくことが大事です。

ベルクソンが挙げたにせの問題の第一として挙げているのは、非存在の問題、無秩序の問題、可能的なものの問題(認識と存在の問題)であり、第二のタイプの例として挙げるのは、自由の問題または強度の問題です。

ここは、本当に重要な部分です。
私たちの今に大きな価値を生のなかに見つけることができるでしょう。
私たちが思考することのまったく逆の運動をベルクソンは発見し、提起しています。

ベルクソンの分析は、存在の観念のなかよりも非存在の観念のなかに、秩序よりも無秩序に、実在よりも可能的なもののなかに、より少ないものではなく、より多いものがあることがあることを実証することから成っています。

私たちが思っている価値基準とは反対なのです。
たとえば、秩序といえば、生い立ち、発育、教育、成長、社会、大企業のような大きな組織が大きいと考えているのが私たちのイメージであり、そこの創造があると思っていますが、ベルクソンの問題の提起から哲学的に見ると、私たちが理解していることが<にせの問題>になるのです。

 

ベルクソンにせの問題の補足。そしてその実態の探求

・非存在の観念。

実際のところ存在の観念があり、それに加えて一般化された否定の論理操作と、この操作の特殊な心理的モチーフがある(ひとつの存在が私たちの注意を値せず、それを私たちの関心の対象の欠如・不在としてのみ把握する場合)

・無秩序の観念。

すでに秩序の観念があり、それに加えて秩序の否定とこの否定のモチーフがある(私たちが期待していたものではない秩序に出会う場合)

・可能的なものの観念。

実在的なものの観念よりも多くのものがある。
<なぜなら、可能的なものはいちど作られたイマージュを過去のなかに投げ込む精神の行動を伴っている実在的なものにほかならないからである>
また、可能的なものの観念にはこの行動のモチーフも含まれる(私たちが宇宙のなかでひとつの実在の出現を、閉じられた体系のなかでもろもろの状態の継起と混同する場合)
ベルクソンはこのにせの問題の補足を入れることで、より実践的なものになっています。
私たちは、もともとあると思われている可能性、無秩序、非存在のなかに、にせの問題の構造的要素は、そこにさらなる真偽を入れていくことであり、<真実の後退運動>という新しい潜在的な運動で、存在、秩序、存在者のイマージュを切り替えるのです。

ベルクソンは私たちが陥りやすい諸現象を言い当てていて、私たちがしばしば意識的に考えてることがあります。
それが、今挙げた前進(進行)と後退の前後相違です。
そのとき、思考が問うてしまうのが、<なぜ無ではなくて何かがあるのか><なぜ無秩序ではなく秩序か><なぜあれではなくこれなのか>、これらが思考における悪であります。

つまり、私たちは多くのものをより少ないものと取り違え、あたかも非存在が存在に先立ち、無秩序が秩序に先立ち、可能的なものが実存に先立つかのようにふるまっています。

こうした<真実の後退運動>は、あたかも存在が空虚を満たし、秩序が前からあった無秩序を組織化し、実在的なものが最初の可能性を実現したかのようであるのです。

私たちが思っている諸要素はにせの問題を作り上げ、あたかもそれが多くのものを少ないものに取り違えてきました。
すなわち、ベルクソン以前の哲学者もそうしてしましたし、私たち自身は情報化と揶揄される今という現代に生きていることで、哲学性はなく、生活のほとんどが<一>と<多>を総合化する科学に支配されている私たちも同じくにせの問題を、そのままそれが真実であると思い込んで生きているのです。

私たちが何年生きたとしても、年数という数式は経験を蓄積したと思いがちですが、内在するのはにせの問題の構成要素の可能性、無秩序、非存在が中心となるため、私たちは存在、秩序、存在者に実存の真理があるので、そこに戻さなければ、それはむしろ幻想の次元はますます外延を作り、発展的、進化的に依存した進化論と同じ運命を辿ってしまうのです。

 

帰結

tak:今回は、松本さんがベルクソンの直観と持続についてお話をして頂きました。
ドゥルーズの哲学を取り上げるためには、ドゥルーズが実践した脱構築を同時に追っていかなければ、私たちの実践に関わらないだろうと思い、今後は対話とこうしたひとつの題材をテーマにした内容を松本さんにお話頂こうと考えています。

ベルクソンが言いたいのは何であったのでしょうか?

その主要な要素は、哲学者カントまで続いてきた、アプリオリなる人間から解離したところに置いた非哲学でした。
それをベルクソン以前の哲学者は哲学と呼んだのですが、やはり古代ギリシャから古典主義、キリスト教に発展したこの発展というモチーフが、人間をますます巨大化させる発端となったのでした。

大事なことは、ベルクソンやドゥルーズは、それまでの哲学と呼んでいたアプリオリなる非哲学をそのままに立たせ、脱構築に活かしたことなのです。

このような物の見方は、時代の転換にも多少の関連はあるとは思いますが、運動という生物的要素を導入したところが、彼らが生んだ新しい真なる哲学に変わっていったといえるでしょう。

私たちは、こうした哲学を彼らが導きだしてくれたエクリチュールを知らずに生きています。
よって、たとえ時代区分は現代であっても、古代ギリシャの形而上学の人間を巨視した過大な超越性は抱えたまま生きています。

私たちは、まだ何も実践していません。
私たちが20年後どうなっているのか、予測から実態まで創造できます。
過去の歴史と同じ事象が必然的に発生する未来が見えてきます。

非哲学を哲学として、私たちは真の生物的な運動は、ドゥルーズとガタリがいうように、機械的であり、ノマド的であるはずですから、20年後が予測されるはずはないはずです。

真なる哲学を私たちが実践するなら、現実と潜在的な運動に基づいた未知が構造として感じとれてくるのです。
だから、あなたが20年後どうなっているのか分からないと思えたなら、それは真なる哲学を実践していることになっていることになるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

written by ven

このエントリーをはてなブックマークに追加
-