難波座裏「イタリアンバルピエーノ」にて

VEN WORK MAGAZINE / GOURMET

難波座裏「イタリアンバルピエーノ」にて

私たちは、対話をすることが、これまでの思考を解体し、新しい刺激を入れていける隙間を作れると、これまで対話を続けたおかげで、仮説から確信に近づいてきた。

 

なぜ、対話なのかというところに私たちの強い想いが込められていて、私たちがモデルとしたのが、古代ギリシャの哲学者プラトンだった。

ひたすら対話を繰り返すと、行き止まりそうで、決してそこが終わりではないところまで思考は持っていけるというのが、プラトンの弟子が残した著書「メノン」にそのやり取りが残されている。

プラトンを私たちが知って、それが本質だと思えるのが、プラトンは自分の考えを概念化せず、それを分かりやすく体系化しなかった。

今風でいうと、マニュアル化せず、誰もが分かりやすくなっていくことを恐れ、自らプラトンは自分の概念を人に伝えなかったが、対話をしているという方法だけは、プラトンが立ち上げた当時のギリシャの学校では、繰り返し行なわれていた。

対話を繰り返すと、どんどん追い詰められ、苦しくなってくる。

さらにそこから、対話を繰り返せば、人間はある到達点に達し、東洋の見方で言うと、いわゆる悟りに近い世界観に近づけるというのです。

作業着をオシャレに改革を試みるベンワークウェアの松本と、フリーでパーソナルトレーナーをする萩原は、対話によってプラトンにさらにそれを新しくしようとする欲求がこの記事の継続を促すのです。

 

tak:松本さんがこの間言っていたのは、これから生まれてくる子供たちは本当に幸福なのかなと気持ちを悩ませていました。

ニュースの終わりに、その日に生まれた赤ちゃんが映るコーナーを見て、松本さんはそう思われたということですが、今の時代はそれぐらい生きていくのが難しい時代なのでしょうか?

 

matsumoto:そうですね。現実に起きている問題をマスメディアは私たちに伝えていないため、私たちが日常的に自分たちに問いかける思考がないまま生きています。

一方で貧困問題や女性の雇用、子育てなどを社会が問題にすると、社会目線が強すぎて、私たち大衆目線からズレていて、私たちが自分たちを見つめ直すことにならない状態です。

私たちは、自分ができることを身の丈に合いながら、自分で探して、それを世の中に活かすのが適切だと思われますが、それがなされない世の中は、誤った方向に進んでいくだろうと、私は恐れています。

 

tak:松本さんが言っていた赤ちゃんが生まれたシーンをテレビで見たことがあるのですが、若いお母さんとお父さんは喜びいっぱいというものですが、松本さんが思うのは、貧困が広がり、これから先企業の倒産もあるでしょうし、子供が幸せに育っていける状況ではない世の中だというところに目をつけているのですね。

 

matsumoto:私たちの生活は、確かに便利になりましたが、物価も年々上がっていて、子育てするにもかなりお金がかかる状況です。

そうなっているのも、社会が生まれてから良い学校に行かせる目標のために、学校以外に塾に行かせ、高校や大学に行くのが当たり前になって、そこから大企業に入れるのは一部の子供だけですし、私が思うのは、未来の選択肢が一つだけが幸せだとするのが、適切ではないですね。

 

tak:なるほど。すべての人が大学に行く必要はないですし、本来大学は学問を修得するためにあるはずですが、今は就職のための肩書きを得るためになってますよね。

松本さんの問いかけを聞いて思うのは、何にもかもを社会にまとめてしまうことが、私たちが自分の足元を見えなくさせていますね。

大学に行くことだって、社会が問いかけるべきだったのが、それをやらずにずっと同じ形で、子供たちに提示しているため、それを選ぶならまっとうで、そうでなければ貧困の道というのは、あまりにも人間を活かせていないなと思います。

 

matsumoto:そうですね。さっきの赤ちゃんを幸せに映すシーンも、子供を産むのが幸せだと社会はその枠組みを作っているため、そうでない生き方をすると、肩身が狭くなり、幸せではない道を選択したという思い込みとなってしまい、自分で未来を探せなくなります。

貧困問題もそういった選択肢の偏狭によって想像力の低下から適切な自分探しに繋がらないために起きています。

安倍総理が提唱するアベノミクスは根本的解決ではなく、株価誘導による大企業の所得を増やす政策は、その恩恵は一部大企業のみとなり、中小企業や零細企業、個人事業は、一つの幸せの道以外という認識を高める結果となっています。

 

tak:そうですね。松本さんは世界平和についてと貧困問題についてよく言及されていますが、それらに相関性はあると考えていますか?

 

matsumoto:十分あると考えています。

世界平和は戦争をなくすことで実現できますが、その戦争はなぜ起きているのかという部分が大きな意味があります。

世界平和に目線をおくと、反戦デモが盛んになって主導権を握る権威に対して主張をする活動がありますが、それはいくらやったってそれ以上のカタチにはならないのです。

戦争のベースには何があるのかを見つけ出さないと、ただ戦争反対をしても何も動き出さないでしょう。

戦争を起こすテロに参加するのは貧困問題を抱えた地域から出てきます。

中東で紛争が起こりやすいのは、アメリカと石油のエネルギーによるのはほんの一部で、もともとは中東は産業がないことによる貧困問題からきています。

 

tak:なるほど。世界平和と貧困問題はマスメディアではバラバラに報道しているように感じます。

それぞれ違う分野の専門家が出てきて、それについて専門的に述べている感じがします。

私たちはそれを見て、世界平和と貧困問題が思考ではなかなか一致しないように思います。

日本における貧困問題のイメージも、かなり狭義な目線ではないのかなとも思いました。

私たちができることって何があるのでしょうか?

matsumoto:それは私がずっと考え続けている悩みで、一つの方法や答えはあり得ないですが、どこかの着地点があるはずで、人間はそれを求めていると私は考えます。

例えば、今回の選挙で自民党に票を入れた方は、決して改憲が目的だとは思えません。

経済面、育児面、あとは自民党は与党経験が長いため、野党側の民進党やその他の党には任せられないと思ったから自民党に入れました。

それが、選挙が終わった途端、マスメディアでは、自民党が大勝、改憲派が支持されたと報道しました。

それだけを見ると、さも票を入れた人が改憲に支持したと捉えられますが、そうではないはずです。

戦争に行きたい人は一部の人を除いてはいないんです。

その気持ちを私は自分の中で痛感し、人間は他者を殺したくないと分かっているため、世界平和と貧困問題が絡んでいると考えています。

 

 

 

 

 

 

image

 

tak:なるほど。そう考えると、貧困問題があるために、未来を憂いたり、今を絶望し、それが引き金となって、自暴自棄になっていくわけですよね。

そこで気持ちに余裕がなくなって、他者破壊欲が高まってきてしまうのでしょう。

そうなると、国内で起きる殺人事件も同じことなのでしょうか?

 

matsumotoまさに、同じ現象です。

そこが一般的に解釈されにくいところですね。マスメディアがニュースの報道のやり方で、殺人事件と戦争が結び付かないというのもありますが、私たち大衆の想像力として、殺人事件と戦争は繋がっていません。

メジャーな大学を出て、大企業に入社した人が殺人事件になるケースは少ないうえに、問題があると考える人物がいると、大企業は早い段階で村八分にしていきますので、いわゆるエリートと呼ばれる層の凶悪犯罪は少ないです。

やはり、家庭的に何かがあったり、そこに貧困問題が絡むと、もっと複雑になって、自己破壊から他者破壊欲になっていくのが、典型的な犯罪です。

tak:確かにそうですね。そのニュースを見てる私たちがそのように他者破壊欲を持つかもしれないのに、内心ではあの悪者とは違うって認識してますね。

私たちだって、いつ貧困問題になるか分からない立場なのに、なぜ犯罪をした加害者に同情できず被害者側を見ていますよね。

松本さんは死刑は反対だと述べられていますが、犯罪を犯すのは、背景に貧困問題が潜んでいることに私たちは気づけないから、いつまで経っても、貧困問題は解決していないですよね。

 

matsumoto:私自身ずっと疑問に思い、この世の動きにいつも葛藤を抱えていました。

自分が悪いのかなと何度も問いかけましたし、若い時は自分の生き方に自信をまったく持てませんでした。

もちろん、今も悩みの途中ですので、今の私の生き方に自信が決してあるのではありませんが、私が若い時に答えを求め、いろいろな文学に触れたことで、少し解決の糸が見つかったように思います。

 

政治と経済が結び付いて、それらが単独で世の中を動かす流れが強いため、私たちはニュースを見たとしても、報道の向こうに何が隠されているのかが気づきにくいのです。

 

tak:なるほど。そう考えると、ニュースを見ても、私たちの身近で起きている事件なのに、どこか冷めた目で、傍観する静かな野次馬のように、苦しんでる人がいるなら手を差し出して上げようよと思えるのならいいのですが、現実はそうではないですよね。

 

matsumoto:私は戦争の悲惨な体験は、必ずしも戦争経験者が語るものではない気がしています。

終戦記念日の8月が近づくと、テレビでは毎年戦争の映像が流れたり、体験者が語っているシーンをよく目にしますが、それが戦争経験のない私たちに伝わっているとは思えません。

なぜなら、現にこの度の参議院選挙では自民党が快勝しましたし、また戦争に向けての見方ができないまま、政治が勝手に、無意識な感覚で、自国愛を高め、軍事力を強めることが平和になるとすり替わってきています。

やはり、戦争の映像や戦争経験者の話は、また少し美学にされている傾向もありますので、現代に合った、要は今の経済状況に合った、そしてこれからの未来に合った文体で戦争について、世界平和と貧困問題を伝えなければいけないのではないでしょうか。

 

tak:さすがです!松本さん、やりますね。深すぎて、しびれてきます。

私たちが忘れていることが見えてきました。

やはり芸術性を磨き、私たちは自らの生きた体験を経験に変え、それをさらに文体にのせる意識が必要ですね。

松本さんがおっしゃったように、政治と経済が先導するのは適切ではありません。

そして、歴史というのも、今日までの男性社会で発展してきたため、政治と経済と同じように、今を生きる生身の人間に浸透できない形になっています。

戦争の歴史も、時事的に歴史的人物を覚えても何にもならないですし、そこでなぜ戦争が起こってしまったのかの、人間の欲求や感情の部分を、的確で、色付けのない文体で表現すべきですね。

松本さんのお話を聞いていくと、松本さんの思考や芸術、想像での原点が見えてきました。

戦争の悲惨さから世界平和と貧困問題を語るにしても、バタイユのジルドレ論が必要だと思いました。

松本さんは、自分の不完全な自己の嘆きを通じて、そしてさまざまな芸術を狩猟するにあたり、バタイユのジルドレ論は必然的に到達したのではないかと思います。

 

matsumoto:ありがとうございます。萩原さんの言葉の刺激で、私の感性が興奮し、促される実感があり、やってきて良かったなと、素直に思えます。

バタイユはエロティシズムを説き、人間の原点は悪であると、禁止から侵犯する人間の構造まで行き着けた人ですが、バタイユは他の哲学者や作家とは違うスタイルで継承されているのは、人間を悪の方向から見ることから、さらにそこを乗り越えた思考までいったからです。

そこで、バタイユがなぜ青少年をたくさん殺害したジルドレを扱ったかの意味が分かるのです。

 

tak:私も松本さんの影響を受け、バタイユを何回も読みましたが、私の至らない想像で答えさせて頂きますと、戦争も悪の目線から見るべきなのかなと思いました。

反戦ではなく、戦争を起こすのが人間なんだよという方向から入るのが、世界平和に繋がるのかなと思いましたが、いかがでしょうか?

 

matsumoto:バタイユがジルドレ論を研究したのは、萩原さんが言うように、人間はそこまで人を殺し続けることに何か意味があるのではないかとバタイユはそう感じ、そこを追求しました。

ジルドレは、約1500人もの青少年を殺害したとされていますが、最後は公開処刑させられましたが、ジルドレはそこですべての罪を懺悔し、絞首刑となりジルドレの死体はそのまま火刊となって、周りの民衆はジルドレの魂が救われるようにと祈りを捧げたといいます。

ジルドレを現代の裁きからすると、一人の人間を殺害すれば、無期懲役に近い判決が出されますが、ジルドレはその数が半端ではありません。

ジルドレは、人間が持つすべての性分を自ら見せたのです。今この事実を討論すれば、ジルドレが凶悪犯罪者として、それ以上語ることはできないでしょう。

 

しかし、ジルドレの行なった事実は、バタイユの文体の力によって、人間を悪から見ることを可能にしました。

バタイユの時代は、二度の世界大戦の狭間でしたので、それまではソクラテスの道徳観で人間を解釈し続けていたことが、二度の世界大戦で完全に覆されました。

キリスト教を信じていた教徒も、人間が人間を殺し合うとは思わなかったのに、いざとなれば、それが瞬く間に世界大戦は広がり、人間は他者や他国に殺意の目を持ったことに、世界は揺れました。

 

そこで、バタイユのジルドレ論は人間を悪から見ることができ、ソクラテスから続いた人間は善であるという見方を覆した上に、人間を善と悪の両方から見ることに、大きく貢献しました。

 

tak:なるほど。今度は世界大戦を二度と行なわないことはもちろんのこと、世界平和と貧困問題に対する文体をバタイユから私たちは引き継ぐ使命がありますよね。

私は、文体力はありませんが、松本さんは作家宣言されましたし、これから残りの限られた時間をどのように生き抜くのかを、松本さんは真剣に考えていらっしゃるので、松本さんに期待したいと思います。

 

matsumoto:そう言って頂き、とても嬉しく思うと共に、重くのしかかる自分への負荷に興奮します。

おそらく、日本はこれだけ戦争体験をした国なのに、反戦運動のようにまだ団体交渉に依存しています。

私たち日本人の魂の中に、反戦でなく、世界平和といったとてつもないフレームとしてビジョンを立てることが喫緊の課題です。

そのために文学を改めて見直し、書物は娯楽の役割を果たしながら、そこには過去をぶち壊すような文体を入れることによって、私たちは日本を見直すことが、原爆投下の過去を初めて活かせるのではないかと思うのです。

 

image

 

私たちが必要としているのは思考のベースとなっている心。

社会に自分を見えなくするのではなく、自分というもの、人間というものを各人が見直せば、社会という固い鉄骨で囲まれた独房のようなものではなく、もっと自由な発想によって、それぞれの想像力を活かせば、それほど世の中を変えることは難しくないはず。

私たちはそのために世界の哲学や文学を探し求め、本質を求めて生まれた文体を見つけるために、狩猟する。

 

フランスの哲学者にエマニュアルレヴィナスという人物がいる。

彼は、当時のロシア帝国出身のユダヤ人。

彼は、ナチスドイツによって家族全員がユダヤ人だからという理由で迫害され、レヴィナスだけが生き残された。

そのような痛烈な経験をしたレヴィナスは、人間について究極と言われる深層まで科学ではなく思考で考え抜いた。

レヴィナスは家族を理不尽にも迫害されたという外的体験によるものと、もともと心に抱えていた抑うつ、閉塞感、自己感の喪失、離人感などから、自分と他者を徹底的に分けた。

そして、自分は他者から受ける影響を暴力と呼び、そこを乗り越えることで、他者の傷を自分が受け止め、それが相手のために転換されるところまでいかなければ、生きていても意味がないとまで言った。レヴィナスは他者のために生きること、それが倫理なんだと説く。

レヴィナスは、ユダヤ人であり、晩年の著書「全体性と無限」では、人間には3つの本質があるという。

それは、「自分」「他者」「終末論」の3つであり、私たち人間はこの3つについて、考え抜くことで、生きている意味が見出せ、それが私たちの独自の倫理となると言っている。

レヴィナスは、私たちには考えられない目線で人間を見ている。

それは、ユダヤ人に生まれた宿命により、たまたま生まれたのが、20世紀初期だったという偶然。

レヴィナスは苦しみを引き受けるために、その時期に生まれたのではないかと思うほど、凄まじいエネルギー代謝によって、人間の構造を悪から一方的に受けた心の痛みを負から生のエネルギーに変え、乗り越えた。

そして、レヴィナスはある思考の到達点に手を伸ばすことができた。

それは、

「人間はそもそも壊れるものである。」

この哲学的な表現を生むために、当たり前に聞こえるが、私たち人間は壊れないようにいたいと自我を強め、不安があるからといって死を打ち消すように運動や健康に走っていく。

レヴィナスは、この思考に出会うために、ユダヤ人だから家族のすべてを失うという宿命を引き受けた。

その痕跡を、私たちは自分の不完全さを乗り越え、死を迎えるまで不完全さと向き合い、自分と闘わないといけない。

 

 

image

 

 

 

tak:松本さん、私たちが生まれた時代をどう捉えてますか?

今回の対話の冒頭にもありましたが、子供が生まれたときだけが幸せでそこからはどうなるか分からないから苦しいと言ってました。

今の時代を見つめ、改めてご意見を頂きたいと思います。

 

matsumoto:そうですね。いつの時代も幸せは存在していません。

むしろ、不幸せを向こう側に幸福があって、戦争という不幸せな経験を乗り越えることで幸福を掴めるのです。

私たちは、戦後早いスピードで復興しましたが、戦争を私たちの思考の外に置いたまま、ちょうど時代の流れの運もあって、不幸せなまま、私たちの生活は快適になりました。

私たちは戦争という不幸せを背負ったまま、今日まで生きています。

私たちは何も乗り越えていない土壌に、便利な機器によって、美しい花が咲いているように見える幻覚の中を生きています。

私たちより子供には、この時代の空虚さが見えているでしょう。

子供は親に甘えるフリをして、この見た目の華やかさの隙間に見える不幸せな差異が見えているのです。

今年の初めぐらいに大阪心斎橋のアーケードにデパートの屋上から飛び降り自殺をした女学生がいました。

彼女には、この世の中の不幸せが見えていたのです。

私は、デパートの屋上に上る彼女を止められなかったことを悔やみました。

でも、私が思うのは、彼女は真実が見えていたから、私たちに死を持って伝えてくれたのです。

私たちはその若い人が自ら命を絶つ人たちのエネルギーを無駄にするなら、私たちは生きる価値がありません。

私たちの時代は、便利という鮮やかに翻弄され、本質や真実が見れなくなった機械になっています。

子供たちを救うためにも、私たち大人が自分を見直す必要があります。

私たちもその崖の目の前に立っていて、決断をしなければならないときが今なんだと私はそう思っています。

 

written by 萩原

このエントリーをはてなブックマークに追加
-