東心斎橋「ル プルミエ カフェ」にて

VEN WORK MAGAZINE / GOURMET

東心斎橋「ル プルミエ カフェ」にて

私たち一人一人、共同し合えないだろうと思うぐらい小さな出来事の変化を持ち、時間にまくし立てられるように生きている。

そして、これはいつの時代でもそうなのであるけど、私たちは未来を深い心内では絶望感を抱えている。

それが、人間であり、それが人間なんだと私たちは率先し、たまたまこうしてこのような本質を思考できる運命を授かれたので、説かなければならない。

私たち人間、もう少し掘り下げると、私たち現代人は、便利な生活を与えられたことと引き換えに、絶望感を共有する機会を失った。

私たちは、内心に常に育ち続けている絶望感は、探せなくなった。

それは、パッと見た感じ、世の中が綺麗に見えるからだ。

絶望感は常に変わらないで私たちの中にいる。

しかし、相対的に現実が綺麗に見えるため、自分で気づかれない絶望感は、人間の真実を知らないことになり、私たちはそんな時代の環境に生き、昔より種類の違う侘しい時代を迎えているのかもしれない。

ベンワークウェアを経営する松本と、フリーでパーソナルトレーナーをする萩原の両者は、プラトンの対話編を目標にし、私たち自身の思考の幅を広げるために、対話を続けていく。

 

tak:松本さんが言語学の始祖であるフェルディナン・ド・ソシュール(以下ソシュール)を昔から調べていますよね。

松本さんは、言語の起源を調べると、何がこれからの未来に活かされる知識になると思いながら、ソシュールを見つめているのかが、知りたいです。

 

matsumoto:ソシュールが言語学を説くまで、世界は言語について、民族同士の言語を比較する見方をするまでで、言語の起源に目を向けることができませんでした。

ソシュールが凄いのは、言語を使い始めた起源にまで目を向けたところです。

私がソシュールの言語学に関心を持っているのは、人間の起源や人間が未来に向けて持っている表象について、何か見えるのではないかという直感が私にありまして、それでソシュールを昔から調べているんです。

tak:さすが!松本さんは、その辺の人と見る目が違います。私は魂を一時的に交換できるなら、松本さんの中に一日入ってみたいなと思っているぐらい、松本さんの思考にはとても興味があります。

なるほど。松本さんがよく言ってらっしゃる人間の本質に結び付けるということですよね。

現代はそうした人間の本質を見る目が、現代人である私たちに足りないのでしょうか?

 

matsumoto:はい。私も今の現代に生きる同じ人間ですので、人間の本質を見ずに、目先の数字や業務に飛び付き、そこに集中し過ぎて、人間が崩れていく実感が体内に出てくることがあります。

仕事をして、お金を得て、私たちは生活しているわけですが、私は昔から文学を通じて人間の本質に気づかされた経験があるので、今でも仕事だけに追われると、私の中で何か分からないけど、何かを失っているんだろうと、恐ろしく思うことがあるんです。

 

tak:なるほど。松本さんのその体験を人に表現すれば、それだけで芸術性が生まれるのだろうと思います。

ソシュールの話ですが、ソシュールはそれまでできなかった言語の起源になぜ目を向けることができたのでしょうか?

 

matsumoto:時代の流れもあったのですが、20世紀当時、フランスを中心とする哲学では、過去の大物哲学を徹底的に懐疑して、新しくしようとしていました。

ソクラテスやプラトンから始まり、デカルト、カント、ヘーゲル、ニーチェ、イエスキリストなどを当時のフランス系哲学は見直していたのです。

そこで、全体から一歩も二歩も引いたところから見ることが実現し、それを実行したのが言語に目を付けたソシュールでした。

構成された全体を解体して見るという構造主義という哲学に発展していくのでした。

 

tak:なるほど。とても面白いですね。

ソシュールにはそうやって、人間の思考や行動をひいた目で見るセンスがあったと言えるのでしょうか?

matsumoto:そうですね。時代の展開をうまく感じ、ソシュールの想像性の無限の潜在力なんだと思います。

ソシュールは、そうして言語の構造に着目したことで、言語には二重性があるということが見えてきたのです。

その二重性は、書かれた言語と話された言語で、そこをソシュールは分けられ、しかも問うことができたので、言語の構造を書くことでの言語と話をする言語では、構造が違っていると、ソシュールは見つけ出せたのです。

 

「初期の言語学が引き起こしたあの数えきれないほどの幼稚な誤りは、書かれた言語と話された言語との混同からきていたのである。」(ソシュールの講義集より)

 

tak:ソシュールを深く知ると、構造主義に発展した西洋哲学の変化も分かってきますね。

私はそうやって、物事をひいた目で見るのが苦手ですが、ソシュールが説くまで、当たり前に使用していた言語は、書くのと話すのは、一緒の言語機能だと考えられていたのですね?

matsumoto:そういうことになりますね。初期の言語学は、紀元前の古代ギリシアに遡り、プラトンやエピクロスなどで、言語起源説や修辞学が中心に説かれたのですが、ソシュールが批判するように、そのほとんどが話し言葉を研究する内容でした。

 

どちらかというと、権威に使われる方向から見る言語が中心で、それがソシュールは初期言語学の誤りだと言っています。

私たちは、言語を使って日常的に情報を伝達し合い、共同体の中で生きています。

言語についてその定義が、私たちが生きていく上での形而上学(けいじじょうがく)となり、現実を見る目が、偏ったり、歪んだりすることになります。

ソシュールは、言語の構造を分析できたことで、言語と人間、文化や社会に於ける形而上学そのものに切り込みを入れたというのは、私たちにとってかなり影響を与えていると言えるでしょうね。

 

tak:私は、病院実習で脳梗塞のリハビリを学んできましたが、左大脳半球に梗塞が起きると、大半は言語障害が出て、認知レベルにも問題が出てきます。

医学では、言語医学からリハビリ論になってますが、医療従事者がソシュールを話す人は誰もいませんでした。

 

ソシュールは非科学から言語の構造を説いていますので、今日分かっている脳科学は、研究者が言ったからそう考えられているというように、言語はソシュールが言ったよりも、狭義の中で、偏りを見せているような気がします。

改めて、ソシュールから言語について見つめ直すのは、私たちにとってかなりの財産を残すことになりそうですよね。

 

matsumoto:それは言えますね。ソシュールは、言語を外的からと内的からに分け、内的に言語を捉えることが大事だと言っています。

ソシュール以前の言語学は、民族性や話し言葉での音韻などの外的にのみを考えていたとソシュールは考えたのです。

それによって、外的要素の社会や文化と言語を切り離して考えることができるようになったのでした。

tak:松本さんは、言語は恣意性(しいせい)がないと言っていますが、それもソシュールから見つけ出したのですか?

 

matsumoto:はい。ソシュールは言語は恣意性だと説いています。

tak:恣意性とは何やら難しい表現ですが、どのように考えたらいいですか?

 

matsumoto:はい。恣意性というのは、ソシュール独自の表現で、もともとの恣意の言葉の意味は、気ままや自分勝手、あと偶然そうなったといった意味になります。

ソシュールが説いた言語の恣意性というのは、言語の音韻については、意味を持って考え出したのではなく、恣意性だったといっています。

例えば、机(つくえ)という音韻、「つ」「く」「え」の音韻はたまたま偶然記号のような役割で、音を並べたものに過ぎないと説いたのです。

 

tak:よく分かりますが、なかなか難しい提唱ですね。なぜ、それがたまたまだということが分かるのかと、言語に恣意性が見つかって、どのように人間に当てはめたらいいのか、少し難しくてよく分かりません。

どのように考えたらいいのでしょうか?

 

matsumoto:そうですね。恣意性と言われても難しく感じるのはよく分かります。

ソシュール以前の言語学では、音韻に意味があって、特定の民族はその文化の中で言語が発達したと思われていました。

それをソシュールは、特定の民族に限らず、言語の起源は、人間が他者に伝えるために音を言いやすく繋げたため、意味を持つのではなく、言語を使うために、言語は変換したのではないかと思うことができるようになりました。

ソシュール以前は、民族に言語の違いがあるから、言語は民族性なんだと表面的に考え、それ以上深める機会を完全に失っていたと言えます。

 

tak:分かるような分からないような感じですが、一つ見えたのは、言語は使用するのが目的で発展した記号なんだということですよね?解釈としていかがでしょうか?

 

matsumoto:それでいいと思います。ソシュールは、話し言葉と書き言葉の二重性を説き、そこから書き言葉への執着性について考えだしています。

書かれる言葉によって、それが規範となり、方言のように、人工的な何かが入り込み、言語の起源を分からなくしていると考えてきています。

 

「書かれる言葉と話される言葉。ここにあるのもまた言語のなかのさまざまな対照、二重の側面のひとつである。                                            ここから、対応しあう二重の記号体系が引き出される。この対応は、かつて嘆かわしい結果をもたらしたし、いまでももたらしている。書かれる語への執着は断ちがたいのだ。」(ソシュール講義集より)

 

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tak:言語は記号体系であると、書かれる言葉に執着性があるとソシュールは言っています。

文学は書物に書かれた言語を見て内容を解釈しますが、芸術性と言語の関係性を松本さんはどのように捉えていますか?

 

matsumoto:萩原さんが以前研究されていたロランバルトの「エクリチュール」でもありました。

ソシュールは言語の起源に目を付けていますが、バルトやジョルジュ・バタイユは、話し言葉より書き言葉が、それを読む読者の内的感覚として無造作に動き回ると言っています。

芸術性はソシュール以外の哲学者を参考にすると深まると思います。

ただし、ソシュールは書き言葉に執着性があるように、文学での文体は過去の構成に影響され過ぎて、そこを超えていけてない現実があります。

私たち日本の文学でも、西洋に影響を受けた太宰治や芥川龍之介、夏目漱石の文体を今も引き継いでいて、時代は現代になっているのに、古典文学になっていたりします。

書き言葉によってエクリチュールの潜在性はかなり高くなりますが、その分文体に文学の権威を与えてしまい、まるで古いまま読み手の思考が壊せないでいるのが、今の私たちが抱える課題であると考えることができるでしょう。

 

tak:今、松本さんに熱くお話頂いて感動したのは、構造主義の哲学を生み出したソシュールがいかに凄い想像性があったのか、とてもよく分かりました。

西洋哲学を少しかじったとしても、ソシュールを知らなければ、西洋哲学を何も知らないと断言できるだろうと思います。

ソシュールは20世紀の人物ですが、それぐらい時代を待たなければ、誕生しなかったんだと思うと、ソシュールを知らないわけにいきませんね。

松本さんがこれから先の未来を深く見つめるために、ソシュールに目を向けたことにとっても感銘を受けます。

 

matsumoto:本当にそう思います。ソシュールに影響を受けたのが、文化人類学のレヴィ・ストロースです。

tak:おっ。ソシュールを知っていくと、松本さんの歴史と松本さんの文学史が見えてきますね。

レヴィストロースはフィールドワークで現地に住み着いて、原住民について民族の本質を調べ上げた人物ですが、まったくジャンルが違っているソシュールの影響を受けたのは、どのようなところなんですか?

 

matsumoto:そうですね。ここにソシュールの言語の恣意性が関係してきます。

ソシュール以前の言語学を扱う学者は、先ほども述べたように、言語の発達は民族性であると説いてきました。

ソシュールは、言語と民族性に関係せず、言語は恣意性だと言いましたので、レヴィストロースは民族と言語は何の関係もないということは、それまでひっかかっていた、言語の違いを脇に置いて、民族に集中することができる思考が完成されました。

それまで、草原や山に住むような原住民は独自の言語を使っていると解釈し、ある意味で文明人と差別し、原住民を扱っていましたが、言語の起源にソシュールが行き着いたから、レヴィストロースは言語に縛られないで、フィールドワークを実践できたのです。

 

ソシュールの言語の4つの記号体系

(1)記号の恣意的性格(記号と示されるものとのあいだには連関がない)。

(2)記号の純粋に否定的で示差的な価値。記号はその価値を差異のみに負う(例えば、ぬとめは文字を間違いさえしなければ、ぬとめの差異が分かり、相手にはきっちりと伝わる)。

(3)文字の価値は、一定の体系内で対立しあう大きさとしてしか動かない(日本語とフランス語に違いがあるがそれに意味はない)。

(4)記号の生産手段の全的な無関与性(文字を白で書こうと黒で書こうと彫り込もうと浮き上がらせようと、そういうことはどうでもいい)。

 

「言語が発声器官によって発音されることは、それほど必要なことだろうか。いやそうではない、語は文字に移しうる。道具は何ものでもない。言語と他の記号体系を比較すれば、言語の本質がそこにないことは、はっきり断言できるのだ。」(ソシュール講義集より。4つの記号体系の(4)の解説より)

 

tak:ソシュールについて少しずつ分かってきたように思います。

私は、同時に松本さんの見方が分かってくるのが快楽です。

私の周りに松本さんみたいな人、誰一人としていませんからね。

ソシュールのお話を聞くと、言語の構造や機能によって、人間に対する起源をかなり狭まった見方で20世紀までいたんだろうと思いました。

原住民に対する差別や蔑視。                               主要な言語が世界の中心という誤った解釈にもなり、古代ギリシア以来の形而上学を強め、キリスト教から戦争への展開に繋がっていくことを省みる思考を与えてくれます。

それでも、ソシュールが誕生し、大学で講義したのは、1910から1913年あたりですので、皮肉なことに、その後に世界大戦は二度も私たちは起こしています。

戦争は、貧困から来ると松本さんはいつも私に教えてくれてます。

ソシュールを見直すことで、言語は恣意性だと多くの人が理解できたなら、東南アジアや南米、アフリカの方々を蔑視する見方もなくなるのではないかと思えます。

 

matsumoto:本当にそうですね。私たちは経済活動のために安い労働者に労働を求めていきました。中国に工場を建て、安く労働させ、安く製造し、大量生産化させ、経営者は儲かります。

安い労働者という発想が、原住民を低く見る形而上学からきているのは間違いありません。

言語に対する見方、ソシュールが言語の起源まで説いた骨の折れるような思考の作業を私たちは深めなければ、未来は安倍内閣が打ち出している超保守の昔ながらの価値観に縛られてしまうことになっていくのです。

 

tak:松本さん、凄いですね。ソシュールからレヴィストロース、安倍内閣からこれからも未来。西洋哲学を説いた哲学者たちは、未来への展望まで開くことはできていません。

だから、松本さんが人間を深く調べ、未来に活かす生き方は、西洋哲学でも乗り越えられなかった意識です。

松本さんが思考されている繊細で、多様性のある引き出しを多くの人に知って貰えると、世の中は案外たやすく変わっていけるのではと、松本さんと話してそう思いました。

 

matsumoto:いやいや。私はまだまだですよ。だけど、ソシュールの存在は昔から思考の中心に置いておかないとと考えていました。

萩原さんと今話して、私が思考する以上の展開に今広がってきています。

人間の起源、言語の起源を知らなくては、作家でこれから文学を更新させる立場に私はいますので、文体が本質から離れ、ブレてくるように感じますので、ソシュールから説くのはかなり大事なことですよね。

 

「文字は共同体の同意、そこに属するさまざまな成員のあいだでの契約を前提している。   しかし、取り決めの必要を言いだすまさにその時、またべつの事実がこの取り決めの真の性質を思い知らせてくれる。                               なるほど文字は取り決めに、つまりは恣意的な事がらにもとづいている。

だが、一個人がそれを変えることは、いや共同体全体でさえそれを変えることは不可能である。いったん採用されれば、そこには宿命的と呼んでいい一種の進展しかない。いっさいの意志は、個人的であろうと社会的であろうと、何も変えることができないのだ。

 

起源では意志的でもあったろうこの取り決めは、最初の世代を過ぎたときからもはやそんなものではなくなっている。他の世代は、ただそれを背負い込むのである。このようなふたつの性格は、言語のなかにも同じようにある。」(ソシュール講義集より)

 

tak:私たちの時代は恵まれているなと思います。ソシュールやレヴィストロースは個の一つの生きる時間のすべてを費やした素晴らしい哲学を見出し、何千年も変わらなかった形而上学に動きを入れ、私たちに気づきを入れてくれました。

そのようなコンテキストを探せば、いつでも触れることができる今私たちはかなり幸せな時代にいますよね。

それを私なんか、松本さんに出会うまでソシュールを知る機会もなく生きてきました。

私は松本さんがいたから、こうして人間や自然について根本的に思考することができています。

私たちの対話をもっと変化させ、まだ出会ったことのない人に伝えていきたいですね。

 

matsumoto:まったくその通りですね。

私は大きく文化人類学に出会い、影響を受けてきました。

ソシュールの言語について起源を辿っていったという構造の見直しは、その思考の過程に当時の哲学者たちは感銘を受けたようですね。

tak:私たちの対話の目的は起源に向けて新しい見方をしてみたいという内的で、非言語的欲求です。

ソシュールは、言語学を二重性と恣意性を説いた後、どのような展開になっていったのでしょうか?

 

matsumoto:言語は記号であるとソシュールは説きました。この段階では、言語は恣意性ですので、音韻にも関連性はなく、言葉の音韻の組み合わせに意味はないとしました。

そこから、礼儀行為が入ると、今度は記号から発展して、その行為は象徴となっていきます。

私たちが日本人の常識として使用する挨拶は言語の機能を超えています。

ソシュール以前の言語学の研究者は、人間が話す言葉として形而上学に縛られ続けました。

そのような側面からも、長年のキリスト教に支配された西洋という見方も入ってきます。

だから、ソシュールの哲学はかなり大きな貢献をしたと言えるのです。

 

tak:なるほど。ソシュールはキリストや釈迦、孔子と同じく、自分では著書を書いていないんですよね?

 

matsumoto:そうです。1906年から1911年にジュネーブ大学で三回講義を行なっていて、それを聴講していた弟子が書き残したノートをソシュールの死後まとめられ、世に広まりました。

 

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tak:超越する人物に共通するのが、自ら著述する意志がないことに関心を持ってしまいます。

私なんかは、かなり欲深いので、自分の考えに独自性が発達したら、著述したいと野心を持ってしまうのですが、やはりそのような考えは浅はかなのでしょうね。

松本さんは、作家として、何冊も出すのではなく、大作を一冊か二冊出したいって言っておられますが、超越した人物と同じ考えを持っていますよね。

ソシュールに受けた影響をどのように今後、文体として活かしてみたいですか?

 

matsumoto:私は若い頃から戦争について考えてきました。戦争をすると、敵も味方も死者が出ます。

戦争はやってはいけないことなのは、どの方向から戦争を見ても分かっていますが、争いを止められないのは、人間は戦争をしたいと欲するのかどうかです。

そのために霊長類の行動や慣習の作り方を知らなければならないし、人間に備わってくる権威欲も知っていかないと、戦争への欲求は見えてこないでしょう。

世界平和を目指したいと私は思考のビジョンを持っていますので、ソシュールが言語の起源を辿ったようにして、私はその後を引き継ぎ、世界平和に繋がるような文体が作れたらなと考えています。

 

「記号といえば、私たちはすぐ視覚的な記号のことを考える。そして記号の分離はまったく単純であり、精神の操作を何ら必要としないものだという誤った発想に転落する。

言語のこの性格から、記号の物質面は一種の混沌であり、それじたいでは形を持たないことがはっきりしてくる。単位のありかたを見出しがたくしている原因のひとつがここにあるのだ。

言語学の任務は、これらのあらゆる有効単位が現実に何であるのかを決定することだろう。言語学がそのことを了解してきたとはいいがたい。なぜなら、そこで行われてきたのは、でたらめな単位をめぐるあれこれの議論でしかなかったからだ。言語学はその全任務を成し遂げたことになるだろう。思考に対することば特有の役割は、音的、物質的手段たることにあるのではない。それは、思考と音の合一が不可避的に各単位に到達していくような、そういう性質の中間地帯を創り出すことにある。本来混沌とした思考は、分解され、ことばによって諸単位に配分されることで、いやでも明確になる。」(ソシュール講義集より)

 

tak:松本さんがソシュールを説いていく過程をこうして一緒に経験すると、私たちが当たり前に行なっている思考や行動を少し引いてみることが、唯一の世界平和に繋がる気づきになるのではないのかなと思えます。

政治だって、さまざまな価値観はありますが、人間の中の思考との同一化により、世界平和はどこかに飛んでいき、自分の価値観を発信することが目的となって、すり替わってしまっています。

政治的にどれだけ議論を交わしても、どこにも到達しないのは、私たちじしんが、自分について構造から見つめていないからではないかと考えだすことができました。

松本さんは、ソシュールが構造を見直した思考の過程についてどう思われますか?

 

matsumoto:そうですね。これは、西洋と東洋の形而上学の違いにあるように思えます。

人間に対する見方が私たちが人類として誕生した起源と環境が違っているため、私たち日本人が見ない方向から、西洋の方々は見ることができます。

私たち東洋で生まれた人間は、人間と自然を同一化する見方ですので、私たちには言語をソシュールのように解体することは不可能に近いですね。

tak:そうですか。では、ソシュールが説いた言語学を私たちが活かすのも難しいのでしょうか?

 

matsumoto:そこは、ソシュールの素晴らしい哲学のお陰で、私たちがことばレベルとして分かるところまで来ています。

ソシュール講義集が日本語訳が出ているように、ソシュールの考えを私たち日本人が日本語で解釈することができるのは、容易なことです。

しかし、日本語訳にする壁は否めなく、ソシュールの考えは、ソシュールが使用した言語で触れなければ、ソシュールには近づくことができないというのも限界があるだろうと思えます。

tak:一番理想的なのは、ソシュールの講義集を原文で読むことですよね。

松本さんはボードレールなどの詩集を原文のまま読みたいとしきりに言われていたのは、エクリチュールの真実に近づけたいという考えからですね。

matsumoto:そうです。私たちができることは、構造レベルに解体してくれた西洋哲学の人物たちのエクリチュールにたくさん触れることと、西洋と東洋の形而上学に同一化した後、そこに少し見えるであろう差異を拾い上げていきます。

そうして、私たちが経験上使っている日々の自律的な思考や行動に意味を見つけ、それらを普遍化させていく過程を何度も繰り返せば、私たちの日本語にもソシュールの言語学は活かすことができるはずです。

 

tak:松本さんのビジョンの世界平和に近づけるということですか?

 

matsumoto:ソシュールが言語学を説き、その影響でレヴィストロースがフィールドワークで数が少なくなった原住民も先進国に住む人間と差はない生活をしていたと説きました。

形而上学は、同一化と差異の狭間にあって、そのうち、形而上学は自律的に思考を動かしてしまいます。

ソシュールやレヴィストロースは、自分と他者を分離する想像性が極めてセンスがあったと思いますが、私たちはそのような思考まで挑戦したことがありません。

私たちが構築した東洋から発生した日本文化のほとんどを欧米化してしまった国家です。

ソシュールを活かすには、遥か彼方にあるかもしれませんが、ソシュールから言語学について入り込み、どこかで私たちが自律的に使用する日本語について壁にぶつかるはずです。

そのとき、まだ私たちが成し遂げていない日本語としての言語学への課題が乗り越えられたなら、私たちはソシュールが構造主義の基盤を作ったように、私たち日本人にも、日本人の思考を活かしながら、物事の見方を変えられるぐらいの文体を発信できると、私は信じていますし、私が生命を与えられている間に、できる限りのことを尽くしてみたいと思います。

 

tak:松本さん、とても深く、含蓄のある言葉をたくさんお答え頂き、ありがとうございます。私も私に内在するセンスを磨きつつ、構造レベルに目を向けられるよう、思考の解体にチャレンジしたいと思います。

 

 

 

 

written by 萩原

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