難波座裏「イタリアンバル・ピエーノ」にて

VEN WORK MAGAZINE / GOURMET

難波座裏「イタリアンバル・ピエーノ」にて

今年は世界的に異常気象だと世界のメディアはそう発表していた。

NASA(アメリカ航空宇宙局)は、人間が耐えられる気象ではないからと警告を促した。(私たちからすれば、NASAがいうから余計その事実が真実なのか、何らかの陰謀なのか、はっきりさせたい衝動と怒りに近い感情に快楽を得る)

 

夏が長く、秋がほとんどなく、いきなり冬が来て、肉体と精神は季節の準備をしないまま、新しい季節を食べきれない食材が並ぶような食卓に直面したときのように、急に私たちに向かってくる木枯らしに驚くばかりだ。

そんな私たちは、仕事終わりのとある日に、足早にこのお店に向かう。毎回同じお店だと思いながら、このお店には今時のイタリアンとワイン、気軽に接してくる女性店員の方が、私たちのような気難しい対話をする男性ペアにも声をかけてくれる。

ジャックデリダが言っている差異(さい)や差延(さえん)を求めるには、最適な今時のお店なのだ。

私たちが哲学について語り合い、デリダやマルクス、ハイデガー、ベンヤミンについて対話する。ときには今起こる時事的な話を入れながら、デリダが言っている差異や差延はどのようなことをいうのかを探りながら、私たちは心と思考を寄せ合わせ、引き離す。

そんなとき、このバルの女性店員は私たちに声をかける。

「お久しぶりですね。お酒もう一杯いかがですか?」

良い感じで、接客をされる。素晴らしいタイミングとそのハニカム笑顔。そこはさすがプロであり、きっちりと追加注文に気を外さない。

そうやって、私たちが対話する哲学はこのイタリアバルの女性店員にはこの場において関係のない文脈だ。(もちろん、私たちは人間から離れた話はしない。哲学的思惟はこの女性店員にも不可欠な話。しかし、今は違う。この場では今は違う。私たちはそのズレを感じながら、対話するために、このお店を選ぶ。人間にとって絶対的であり、偶発的である私たちが実践する哲学的思惟は、この女性店員が生きることに困難を感じ、この先どうしていいのか分からず、苦悩を抱えたとき、私たちの出番となるだろう。今は不必要。それでいいし、それがいい。私たちはデリダの差異や差延を探している旅の最中なのだ。)

注文を受け、軽やかに、出来るだけ粋の良いリアクションで、私たちは追加注文する。

女性店員は注文を受けるとすぐに遠くにいるお酒を用意する担当の女性店員に投げかける。

いい感じ。現実はどのお店も会社、すべての生産活動を営む組織は、利益を上げなければならない。お客さんの客単価を上げるのは、必須であり、死活問題であろう。

女性店員の素敵な笑顔の奥に、厳しい経営という苦悩がチラつく。私たちはそのような浮遊する気体の中に感じる斜陽な空気を感じ、この世を何とかならないものかと、私たちの対話はさらに熱くなる。

みんな何かを抱えている。まだ論理的に語るほど、私たちは未熟であり、哲学的思惟が甘く、不足しているのは、分かっている。

私たちは、デリダを通じ、目に見えることに対して当たり前だと思わないことの大切さを知らされた。

(といいつつ、私たちはデリダについて何も分かっていない。彼はアルジェリア出身で、地中海を見ながら育った。その対岸にある国フランスで、彼は哲学的思惟を実践した。そしてデリダは、アルジェリア系ユダヤ人。私たちとはまったく違う民族であり、ユダヤ人という迫害され続けた歴史的事実が、デリダの内面の複雑な抑圧と自己破壊による快楽の次元は私たちよりはるかに深く、深淵である)

 

これが差異なのか?これが差延なのか?

分からない。まったく分からない。しかし、私たちは仕事を通じていろいろ人と接しているが、もっと人のためになれないものかと思い悩む。しかし、その内部運動は感情と欲求の不成立と非効率により、私たちの内部運動を過剰に活動させ、自己愛で満たしていく自我により、その思いを自分の手にするのを阻まれてしまう。

そんな私たちは、今日も対話を通して、デリダが説いた脱構築(だつこうちく)について、対話の中に私たちなりに入れ交わしつつ、対話と思考をリンクさせ、自分を表現していく。

 

*カール・マルクス(1818-1883)ドイツ出身。哲学者。思想家。経済学者。科学的社会主義を説き、資本主義の高度な発展の後に共産主義が到来する必然性を打ち立てた。

*ヴァルター・ベンディクス・シェーンフリース・ベンヤミン(1892 – 1940)ドイツの文芸批評家、哲学者、思想家、翻訳家、社会批評家。フランクフルト学派の1人に数えられる。ドイツ観念論、ロマン主義、史的唯物論、及びユダヤ教的神秘主義などの諸要素を取り入れ、主に美学と西洋マルクス主義に強い影響を与えた。

*マルティン・ハイデガー(1889- 1976)は、ドイツの哲学者。アリストテレスやヘラクレイトスなどの古代ギリシア哲学の解釈などを通じて独自の存在論哲学を展開した。

 

対話の主体の二人

matsumoto:ベンワークウェア経営者松本

tak:フリーパーソナルトレーナー萩原

 

 

tak:先日、松本さんに譲って頂いたデリダの著書「エクリチュールと差異」を見ていましたが、文体が深すぎて、追いかけるのが大変でした。でも、何回も読んでいくうちに、少し光が見えたかのように、何が言いたいのかを少し分かった感じがしました。

その著書を読んで思ったのですが、論理的に解析する見方が哲学には必要なのでしょうか?

matsumoto:そうですね。論理的に書かれているのは、哲学的思惟に繋げるためにも、論理は哲学の根源にある構造です。哲学者は、その時代以前の哲学者の著書を徹底的に熟読し、先代の哲学者を乗り越えるために、かなり入り込み、自分の概念にしています。

そのためには、論理というのは、必要不可欠ですね。

 

tak:なるほど。最近松本さんの哲学的見識を生で感じ、そこに魅力に惹かれ、私はヘーゲルの著書を読むことにしているのですが、ヘーゲルは「大論理学」を出版していて、論理学はヘーゲルから始まったの考えて良いのでしょうか?

matsumoto:ヘーゲルからが、近代や現代に繋がっていく起源になったのではないかと思っています。

ヘーゲル以前の哲学者として、デカルトやカントがいましたが、彼らは神学的な視野において説いてきたため、人間の内面というよりはとても機械的で、神がいて、神が内在していることが前提で説いていますので、ヘーゲルはそこに目をつけました。

そして、ヘーゲルがそれまでの哲学者と違ったのは、デカルトやカントの哲学は一般向けではなく、貴族向きや信仰向きに考えられたのに対してヘーゲルは大衆哲学の目線から哲学を行おうとしたところが、その後の哲学者に多大なる影響を与えてきました。

tak:そうなんですね。バタイユやデリダの著書にも度々ヘーゲルの名前が出てきますが、それだけの論理性によって哲学をしたことが、大きな影響を及ぼしたのですね。

ヘーゲルの著書の「エンツュクロペディー」を私は古本屋で見つけ、購入してみました。

松本さんにお尋ねしますと、最高級の著書だと言っておられましたが、私はデリダを理解するためにはヘーゲルは不可避だろうと考え、熟読している最中ですが、デリダはヘーゲルにどのようにして関連づけているのか教えて頂きたいです。

matsumoto:今挙がりましたヘーゲルの著書「エンツュクロペディー」はドイツ語で「百科事典」という意味となっています。

「百科事典」と聞いて、萩原さんは何か哲学史の話をこれまで対話の中に入れてきましたが、何か連想できることはありますか?

tak:うーん。今まで話してきた内容を振り返ってもなかなか思い出せません。松本さんの分かりやすいお話を頼りにさせて頂きます!

matsumoto:ありがとうございます。この「エンツュクロペディー」は、18世紀にフランス啓蒙主義から生まれた「百科全書」にならい、この名前にしたとされています。

フランス啓蒙主義の思想家ディドロとダランベールが共同して書き上げた書物で、ヘーゲルはこの系統を引き継ぐのではなく、批判するという哲学的な大事業に費やしました。

「エンツュクロペディー」では、徹底的にフランス啓蒙主義を取り上げ、批判し、新しいヘーゲル的哲学にしようとする意識がよく伝わってきます。

そして、この「エンツュクロペディー」の優れたところは、新しく再版されたときに、ヘーゲルは毎回「序論」として、本題に入る前に丁寧に新しくなった経緯を書き示すという文体になっていて、ヘーゲルが大衆哲学を目指し、分かりやすく、大衆に伝えたいと考えたところがよく分かります。

tak:かなり深い展開が哲学史にはあるのですね。ヘーゲルを批判する現代に出版された書物もたくさんあって、論理的に説いた哲学というのは、論理的に見ていけば、次々とそれらを剥がし、批判できるところは徹底して論理しなおすのが本質ですね。

ヘーゲルは哲学の世界ではかなり難解だと言われますが、この「エンツュクロペディー」を読むと、思っていたよりは分かりやすいなと思いました。むしろデリダの文体は、ヘーゲルよりも内実性があって、複雑な気がしていますが、デリダはひょっとすると、ヘーゲルよりも深く解体したのかどうか、松本さんはどう考えますか?

matsumoto:デリダはかなり難しいのですが、デリダはヘーゲルの継承を受けつつ、完全にヘーゲルも批判しています。

すなわち、ヘーゲルが見えなかったところ、ヘーゲルが説かなかった方向について、まず最初にヘーゲルの論理性にデリダは一番近視してヘーゲルを見る。そして、そこの場所から沈黙が生まれているところに問いかけることで、ズレを作り、論理的に見直すことを行ないました。

ヘーゲルの功績は、人間の内部構造の精神という枠組みを打ち立てることを可能としました。このヘーゲルの新しい内部構造の精神は、その後のフロイト、ラカン、ユングに繋がり、精神分析学の系統でも脱構築が繰り返された流れがありますね。

ヘーゲルが説けなかったのは、神を否定し、現存性や現前性はどこからどこまでなのか、それが曖昧のままヘーゲルはこの世を去りました。

それを引き継いだのが、その後に生まれたフッサールです。フッサールの書物に「論理学研究」があります。フッサールは、現象学という学問に取り組み、デリダはしっかりとフッサールを熟読し、批判しています。

tak:松本さん、分かりやすく、スリリングで快刺激が体内を高まらせています。

このフッサールの「論理学研究」はヘーゲルの「大論理学」に対する批判をしているのですね?

matsumoto:その通りです。デリダが一貫している哲学的思惟の挑戦としまして、次のような命題が生まれます。

それは、「形而上学批判から新しく人間を構築し直すこと」です。

(形而上学。よみ けいじじょうがく。古代ギリシャ アリストテレスが体系化した人間がもともと持っているイデア(理性)について。このもともとという部分が、ヘーゲルは説けなかったけど、ヘーゲルの後のフッサールやハイデガー、そしてデリダへと発展することになった起源であるのは確か。このイデアは認識論に関連づけられデカルトやカントに至る。そのままフッサールはイデアを持ち込んだまま、現象学を説いたとデリダは批判している。デリダはイデアを再構築し、西洋が犯したさまざまな誤ちを現前化し認識させたいと切に願い、デリダは哲学者としての人生を終える)

そこで、デリダは現象学を説いたフッサールに目を向けました。

 

(*現象学とは?   19世紀末、心理学主義・生物学主義の蔓延するヨーロッパ思想界を背景に、諸科学(数学・物理学)の基礎付けを行うことを目標にして、フッサール (1859 – 1938) が提唱した、学問及びそれに付随する方法論を超越論的現象学 (独: transzendentale Phänomenologie) と呼ぶ。超越論的現象学では、認識論的批判に無関心な、存在(=「超越」)を自明なものとして捉える「自然的態度」を保留にした状態で、存在と「意識」との関係及び、それぞれの意味が純粋経験=志向的体験から反省的に問われる。)

 

(*認識論とは?                                                       認識論を説く上で4つの問いがある。               その4つとは?次のようになる。

・人はどのようにして物事を正しく知ることができるのか。

・人はどのようにして物事について誤った考え方を抱くのか。
・ある考え方が正しいかどうかを確かめる方法があるか。
・人間にとって不可知の領域はあるか。あるとしたら、どのような形で存在するのか。      要は、人間の外部ある物事をどのように理解するのかを考えた哲学で、フッサールも含め、デリダが説くまで、認識論は現象や存在が説かれても、外部は外部で捉えるといった内在性まで到達することはできなかった。

認識論は哲学を知る上で、主要な哲学的実践なので、理解しやすくするために、簡単にわけると、認識論には次のような4つの分類が可能。

*合理主義   デカルト  マルブランシュ スピノザ ライプニッツ

*経験主義   ロック バークリー ヒューム

*批判主義   カント

*直観主義   フッサール)

 

tak:フッサールはハイデガーの前に出た哲学者ですね。デリダは現前性という表現と非ー現前性という二律背反(にりつはいはん)が出てきますが、これはフッサールに対する批判的挑戦から来ているのですか?

matsumoto:はい。そうなんです。デリダはフッサールの直観主義から打ち出した現象学に目を付けましたが、フッサールは直観主義といいながら、プラトンが確立したイデアを基盤にして、そこを結束させた直観による現象学を打ち出しました。

形而上学は、アリストテレスから始まりましたが、アリストテレスはどこからそれを体系化したのかは、プラトンから受け継いだのでした。

プラトンが説いた哲学的思惟はイデア論ですので、その流れを切ることはできず、そのままのかたちにより形而上学が絶対視され、フッサールはこのイデア論から体系付けた認識論から抜け出せませんでした。

それゆえにフッサールは、ヘーゲルを超えようとしたのは、形而上学的思弁を批判している文体を残している痕跡により理解できます。

フッサールは、現象学を説くにあたり、形而上学を思弁的な見方から批判することに挑戦しています。

tak:なるほど。なるほど。複雑なような、分かりやすいような、そんな感じがします。

フッサールが説いているエクリチュールを見ると、超越論的現象学という記述がかなり出てきますが、これがいわゆるプラトンをベースにしたイデアが絡むということになるわけですね。

しかし、フッサールの時代には現象学まで解析することでさえ、画期的な哲学だったんですよね?

松本さんの影響で哲学の書物を読んでいると、そうだと思う論理はたくさんありますが、フッサールが立ち上げた現象学が一般大衆はどれぐらいその文脈を理解したのでしょうか?

matsumoto:そこなんです。かなり大切な命題にぶつかってきました。フッサールの書物のエクリチュールをデリダは脱構築によって見直していますが、現象学が私たちの中で生き続け、思考の内部運動を回転させ、反転させ、ときには一時的に停止させてみたり、そのように私たちの内部に生息させることが必要ですよね。

私たちの生活の中に、哲学的思惟がほとんど行なわれていないのが、現実です。

そこを覆してみたいと、私たちの知的欲求は興奮する内部で起きる放散を止めれなくなって、私たちはこうして今対話をしていますからね。

そのためにフッサールを含め、デリダも徹底して彼らのエクリチュールとまったく同じ地点、温度、景色を思考の根底に敷かれた生地まで同じく、その生地から同じデザインにまで、近づかなければならないのです。

tak:松本さんはお仕事がどれだけ忙しくなっても、文学のこと、哲学のこと、時事的問題、そしてそのうえ未来の世界平和について、考えることをやめませんよね。そんな松本さんが哲学についてお話頂けるから、難しいエクリチュールにも立ち向かえるのは、おかげさまです。

フッサールのエクリチュールですが、イデアは要するに理性っていうものですよね?根本的な疑問なのですが、イデアが関わっている現象学であるのは、何が不適切なのですか?

matsumoto:一言でいうなら、「現前性」をどのように扱うのかに、フッサールとデリダの間に差異が発生し、デリダはそこの「ずれ」間隔や溝とデリダは表記しますが、一人の哲学者からの引用では、そこに差異が見当たらないというのです。

tak:ということは、私が哲学者だとしたら、他の哲学者の文脈を追えば、必ず差異(ずれ)が現れると考えて良いものでしょうか?

今までの私自身の書物や本の読み方は、決してそうした差異を考えずに、素直にそれぞれの内容を追っては、そういうことなのかと思うか、難しくてよく分からないなと思うかのどちらかでした。

今、私の内部運動の活動は陰の低調なイオンが陽に向かって、グツグツと沸点に近づいている感覚が生まれています。

今、私が思っているのは、書物の読み方が哲学的思惟を促すように読めていなかったのではないかと過去の書物や本を読んできた経験が不適切だったのではと、疑いをかけています。

やはり、他の人間から発するエクリチュールは、私自身と一致することがない部分に差異があると考えて良いのでしょうか?

恥ずかしいことに、書物や本を思考を動かさずに眺めていたに過ぎなかったのではないかと思うんです。

(書物や本。わざわざ本といえば良いのに、それを分ける意味。書物は哲学的思惟により、適切な論理性によって成り立っているものをさし、本は論理性はなく説明で終わっている現代によく出版されている自己啓発やハウツー本に匹敵する。どちらを熟読するのが良いのかは、想像にお任せしますが、この問いに関しては答えがきっちりと出るだろう。書物であることは、いうに値しないほどの記述である。)

 

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matsumoto:私も含め、萩原さんも進化の途中ですので、焦らなくてもいいですから。

私たちは、小さい頃から親に絵本を読んでもらったり、活字が目で追えるようになったら、自分でひらがなで書かれた本を読んできました。

義務教育においても、国語の授業があって、その時間に教科書を読んできましたよね。でも、哲学的思惟の基本である論理性に関しては、ほとんど教えられていません。

本を読むことが大事だというのは、誰もが知っている道徳的観念ですが、どのように読めば良いのかまで教えられたことがないんです。

だから、少しでも論理性を適切にした話し言葉(パロール)を使うと、たいていの聞き手は、解き放たれたように、羽がついて岸から飛び立つ鳥のように、「そんな難しい話分からないよ。」と言ってしまうのです。

おそらく、私たちはデリダが主張するように、イデア論による物事の理論やそれが内部運動で関連づけられる神経の回路は、頑なな、剛性な感覚の、繊細な動きより、大雑把な、いわゆるテレビメディア的娯楽のスタイルになってしまっています。

デリダが主張する形而上学を見つけ出し、公開させる緻密な作業が、今日の私たちにも、最優先でやるべきことの候補であることをかもし出しているのが、私たちの重要な命題ですね。

tak:分かりました。そのように松本さんに脱構築をして頂くと、素直に理解でき、そのように書物を再度読み直したいと思えるんです。とても有り難いことです。

ところで、フッサールはイデア論について彼自身はどこまで論理性を突き詰めるところまでできたのですか?

matsumoto:フッサールの書物を真正面から読もうとすると、たぶん、いや確実に撃沈してしまうと思いますので、それは私たちがもっと哲学的思惟の回路がもっと開くまで反復するとして、やはりデリダがフッサールのイデアをどう批判するのかを追っていってみます。

デリダがフッサールの現象学をうまく現している表記が、「超越論的生」というものです。

フッサールは「生」を超えることができず、「死」の状態、死が表出する死の運動性に対する思考の懐疑を喪失し、フッサールは人間に死がないものだと捉え、生に関してのみ、そこから「現前性」について体系付けました。

tak:そうなると、松本さんがいつも言っている形而上学は決して壊すことなく、現象学と言いながらも、それまで西洋が考えてきた哲学と何ら発展のない文体のなっていますよね。さまざまな歴史的革命があって、そこを記述する著者はたくさんいたのに、結局は西洋の古代ギリシャから続く形而上学は捨てられなかったことになるんですよね?

matsumoto:その通りです。デリダを批判する書物をまだ探せていませんが、そこを取り組む批評家はいるはずなので、そこを読めば、デリダとその後に見える中でのまた新たな差異が見つかるはずです。

デリダにだって形而上学に縛られていた思考はあるのです。デリダは、アルジェリアの風土や対岸に西洋の中心が広がっていた地政学的な部分、彼はユダヤ人でしたので、ユダヤ人的敗北精神もあったと思われます。

形而上学そのものについて、命題に引き出すことが重要ですね。

人間は形而上学を壊せないのか?                    形而上学は不必要なものなのか?                     形而上学が私たちの未来にどのような作用があるのか?などを、見つめ直す見方による哲学的思惟も、同時にやらなければいけません。

tak:形而上学は古代ギリシャから発展し、継承されてきたため、デリダのように優れたセンスを持つ哲学者でさえ、悩みを抱えているのは、形而上学の権威の強さを感じます。

ところで、フッサールの現象学とはどのような哲学的取り組みになっているのか、教えて欲しいです。

matsumoto:フッサールは「論理学研究」という著書の中の第一部で「表現と意味」を論じるにあたりここで現象学の創始となった「本質的区別」という文脈で書いています。

その内容は、「記号」(シーニュ)という語は、「二重の意味」を持つことで、「記号」という記号は、「表現」を意味することも、また「指標」を意味することもありうるといっています。

以前の対話でも出てきましたが、言語学を最初に研究したソシュールが述べている言語は、恣意的に構成された記号の羅列であるという意味で捉えられています。

その部分と同じく言語を記号とし、その中に「表現」と「指標」が含まれていると考えられました。

私たちは認識を表現するには、言葉が必要です。言葉は古代ギリシャではロゴスと言います。

私たちはロゴスを使って認識した事柄を表現しますが、フッサールは言葉の解析から入り、言葉は記号であると説いたあと、その記号には「表現」と「指標」に分けられるとしました。

この記号である言葉は、書き言葉として単純な記述にとどまろうとするものの中にこの区別(表現と指標)を認め、それを指摘する前に、現象学的還元という用語の誕生に先立って、一種の現象学的還元に取り組みました?

tak:今の話を聞きますと、フッサールの哲学的功績は、言語を記号と解釈する可能性を示唆したのですよね。この事実は、後に誕生する言語学のソシュールに連関すると思いました。

言語の領域を超えて、現象学的還元を実践したのはフッサールの優れたところですね。

ところで、現象学的還元とは、どのように哲学的に思考を運動させれば良いのでしょうか?

matsumoto:フッサールの現象学的還元についてはデリダの書物を引用したいと思います。デリダがフッサールについて現象学的批判をした「声と現象」というものがあり、そこには次のように記述されています。

 

「現在であり、より正確に言えば、生き生きとした現在の現前性である。」

この文体は文章の途中を引用しましたが、フッサールの書物を直接引用すると、その生のエクリチュールは、フッサールの主観が中心となるのと、まだフッサールの頃は、ロゴス中心の哲学性が強く残り、修辞学のような表現ですので、デリダは最初から現象学批判で記述するため幾分分かりやすくなります。

さらに引用を続けます。

 

「イデア性の究極の形式、その中で結局あらゆる反復を予測したり想起させたりできるような形式、つまりイデア性のイデア性は、生き生きした現在であり、超越論的生の<自己への現前性>である。」

 

「つねに現前性は、必当然的にそう言えるのだが、その中で無限に多様な内容が産み出されることになる形式であったし、これからもつねに、無限にそうであるだろう。」

フッサールの現象学的還元は、人間の本質を説くつもりで、彼は哲学的思惟を反復しましたが、デリダから彼のエクリチュールを微分すると、差異がたくさん見つかり、結局はイデア性が残存してるではないかと、言っています。

tak:対話していくとだんだん分かってきましたが、デリダはイデア性を批判し、イデア性に脱構築させると、私たちは次なる展開にいけるはずだといっていますよね。

フッサールは現在を生き生きとした現前性として説いたけれど、それは脱構築も為されてないし、イデア性中心、口頭発話であるロゴス、それが形而上学として含まれているよと唱えているのですね。

matsumoto:萩原さん、いい感じですね。興味深いところが、フッサールは自身で決して認識論から考えたわけではないと言っているんです。

私(フッサール)が言っているのは、形而上学批判だよと。その記述はフッサールの「論理学研究」の中に垣間見れます。

その記述が次のような内容です。

 

「もし存在の究極的な認識が形而上学的と呼ばれなければならないということが本当ならば、形而上学的なものである。しかしそれは、通常の意味での形而上学にはまったく属していない。その歴史の過程で退廃したそうした形而上学は、形而上学が本来第一哲学として創設されたときの精神に、まったく合致していない。現象学の具体的で、しかしまた必当然的な直感的方法は、あらゆる「形而上学的冒険」、あらゆる思弁的な行き過ぎを除外する。」(フッサール。論理学研究のデカルト的省察の章より)

 

tak:うーん。複雑ですね。今までの文脈を論理的に予測するなら、形而上学を批判したんですよね。

存在の究極的な認識は、フッサールが自身で見つけ出した、認識を超えた超越論的認識ということになりますよね。

フッサールはその仮説を立てながらも、形而上学的といえばそうだけど、彼が考えた概念は、決して形而上学に値したいものだといいたいのかなと考えましたが、いかがでしょうか?

matsumoto:フッサールが悩み抜いた経緯が苦しいほど伝わってくるこの記述ですね。

フッサールは考え尽くし、過去の書物を読み込み、何度も問いかけました。その結果、認識よりさらに向こうの超越論的認識に辿り着きました。

これで、形而上学は壊されたと、フッサールは自分の概念を温めてきた甲斐があったと、思ったのでしょう。

デリダは、フッサールの超越論的認識に命題を投げつけたのは、イデア性が内在しているから、そこに形式が出来上がってるよと、説いています。

それが、次の記述になります。

 

「現前性という価値は、そうした言述すべての法的な最終進級ですが、充実された直観の明晰な明証性において何らかの対象が意識へと現前する場合であれ、また「意識」とは、生き生きとした現在において、現在が自己へと現前する可能性以外の何ものも意味しないのだから、意識の中で自己へと現前する場合であれ、そのたびに現前性という価値は、失われることなく自分自身で変様していくのである。」

 

tak:うーん。次こそは解釈したいですね。現前性がどうであるのか?現前性はどこにあるのかの明証は、意識したら、現在という今は、自己へと仮に現前したとしても、自己に含まれ、現前性は消えるということですか?

matsumoto:いい感じですね。デリダはフッサールを決して否定しているわけでなく、フッサールの思惟に徹底的に近づき、一度同じ思考の回転に持っていってます。

その目的は、デリダ自身も現前性について探していて、デリダの思惟に持ち込むための差異を探しています。

現前性を意識したときに、自己の中に消えるから、超越論的認識は本当にあり得るのか?と考えているのが、デリダです。

本当に現象学が導いた存在は実在するのかどうかに、弁証法を用いています。

 

 

(*弁証法とは?   ヘーゲルの弁証法を構成するものは、ある命題(テーゼ=正)と、それと矛盾する、もしくはそれを否定する反対の命題(アンチテーゼ=反対命題)、そして、それらを本質的に統合した命題(ジンテーゼ=合)の3つである。全てのものは己のうちに矛盾を含んでおり、それによって必然的に己と対立するものを生み出す。生み出したものと生み出されたものは互いに対立しあうが(ここに優劣関係はない)、同時にまさにその対立によって互いに結びついている(相互媒介)。最後には二つがアウフヘーベン(aufheben, 止揚,揚棄)される。このアウフヘーベンは「否定の否定」であり、一見すると単なる二重否定すなわち肯定=正のようである。しかしアウフヘーベンにおいては、正のみならず、正に対立していた反もまた保存されているのである。ドイツ語のアウフヘーベンは「捨てる」(否定する)と「持ち上げる」(高める)という、互いに相反する二つの意味をもちあわせている。なおカトリックではaufhebenは上へあげること(例:聖体の奉挙Elevation)の意。)

 

(弁証法と批判の連関。弁証法を使わなければ、批判したとは言えない。上記に引用したように、テーゼとアンチテーゼに優劣はなく、そこからアウフヘーベンが作用し、ジンテーゼが出てくる。今見てきたデリダとフッサールについてでは、テーゼがフッサールの超越論的認識についてであり、アンチテーゼはデリダが唱えた意識すると現前性は自己の中に入り込むため、現前性はなくなるではないか、になる。そして、弁証法はここでフッサールとデリダの概念は両者ともアウフヘーベンされ、いわゆる両者とも否定の否定になる。その意味は、デリダが批判したことも誰かに批判される可能性を満ちているため、デリダの思惟も否定されたことになり、否定と否定でアウフヘーベンにより、新しいテーゼであるジンテーゼが生まれる。このジンテーゼは誰が唱えるのでしょう?それは、あなた自身がジンテーゼを持っているのです。)

 

tak:現前性についてですね。そこにこだわる理由は何であるのでしょうか?

matsumoto:そこが最も重要な命題です。弁証法の定義を今見せましたが、フッサールとデリダの間の力関係は等号(イコール)なんです。

弁証法を知らなければ、フッサールが間違っていて、デリダが正しくみえますが、そうではなく、論理学というのは、一致するまで論理的に考え続けます。

なぜ、このような現前性でフッサールとデリダは考えるのか?

それは、このフッサールあたりから、それまでの西洋は神が存在し、人間を創造したのは外部にいる神、地球を創造したのも私たちの外にいる神。古代ギリシャのプラトンやアリストテレスを基盤にしてきた哲学は、彼らを批判するのは、かなり難しい作業でした。

そこに、神の存在とキリスト教が関連し、神はいつからいるのか?と問うと、今のように個の概念や意識はまだ未発達だったため、神は私たちに現前していたとその頃の人は思っていました。

時代は移り変わり、さまざまな革命を経験し、国家の退廃を知り、私たちはそれまで信じていた神を捨てる必要が出てきました。

そこで、フッサールとデリダは人間について本質と根源を追求するのが哲学の運動性ですので、特に近代以降の哲学者は、現前性と神について熱く弁証法を取り組みました。

tak:そういうことなんですね。今の話から、日本人の民族性に関わってくるなと思いました。

私たちは単一民族で、インドや中国から入ってきた仏教や儒教、道教が思考にインプットされているため、一神教より多神教であり、儀式として寺社に参拝する慣習はありますが、神の存在はそれほど強くないですよね。

現前性ということも、私たちはピンとこないですね。

しかし、弁証法の定義を知って、私たちの起源を知るためにも、テーゼを西洋にし、アンチテーゼを東洋にして考えてもいいわけで、西洋が悩み続けた現前性はどこにあるのかに焦点を当て、弁証法に持っていけば、私たちの内面性、もしくは私たち自身の現前性に出会える可能性がありますよね。

matsumoto:そこですね。フッサールやデリダが偉いとかではなく、彼らが人間をどのように見たのか、または現実というものをどうやって知覚から認識にかたち付けたのか、もしくは人間が認識しなくても認識する思考や、知覚するだけで認識しているのか、など私たちが何を思い、何を感じるかを知ることに、哲学をする根源があり、それが価値となっていきます。

 

最後に、もう少しフッサールについて話をして結びにしていこうと思います。

デリダは、フッサールの現前性はイデア論から持ち出したため、認識は超えてないし、形式になっているよと言ったのは、形式という表記にデリダは重要視しています。

形式にすると反復可能となってしまい、反復は現前性を安泰にすると、記述しています。

それが次の引用です。

 

「このイデア性は一般に、ある対象の現前が同じものとして際限なく反復されることが可能となる。」

 

「イデア的あるいは超越論的意識への、イデア的現前。イデア性が、反復において現前性を安泰にし、支配しているのである。」

「この現前性は、その純粋さにおいて、世界の内に実在する何ものの現前性でもなく、イデア的なものそのものである反復作用と相関関係にある。」

 

tak:これらの記述は、イデア性が反復されるのは形式があったからで、イデア的と現前性が結び合うと一定の反復を作り出すため、安泰し、そこに支配されてしまう。このことは、今思ったのですが、私たちの日常にもこの要素はたくさんあるなと思いました。

「イデア的ー現前性ー安泰ー支配」の相関関係は、他者と区別や差別するときに使ってますよね。

特に学歴や会社名など、偏差値の高い学校だからその人は賢く、 偉いといった他者に対する現前性から出る観念は、デリダが批判することと同じだと思いました。

matsumoto:本当にそうですね。デリダが脱構築によって思惟の中で挑戦してもやり切れず、この世を去ったのは、それでも人間は形而上学を抱えながら生きるものだけど、それでは未来は開かれないよとデリダは私たちに伝えているのだと思います。

逆説的に考えると、私たちを支配するのは、その後ろにある、その現前性にある形式が私たちに反復しやすくしているといえるでしょう。

私たちが書物を眺めるように読むのなら、私たちを支配するイデア性と形式がそのまま過去や人間に対する現前性だと思い込む一定の価値基準が働き、デリダがフッサールを批判するのと同じく、書物を読んでいるつもりが読めていないことになり、現前的に持っている形式に基づいて読んでいます。

そうなると、私たちはこの反復により、ますますそこの回路は強められ、この形式から抜け出せなくなります。

むしろ、自己に内在すると思い込んでいるイデア性が何回も、暴走するみたいに反復し続けます。

そういうことを避けるために、デリダは脱構築という非生産的な特異な運動性の差異や差延が起こす「ずれ」をうまく使い、過去の哲学者のエクリチュール(書き言葉)に取り組みました。

 

(ひょっとすれば、私たちにとって不可避なのかもしれない。しかし形而上学を壊せるかどうかの解答はまだ未完のままで、あなた自身がこれから生きていく中で、確かめるしかない。形而上学によるイデア性の現前性は、究極での個の中にある)

 

また次回以降で詳しく説いてみたいのは、フッサールが現前性を壊しかけた要素が一つありまして、それは言語学がソシュールによって活性する前に、フッサールは言語を記号だと扱ったことでした。

言語の意味を剥奪してからようやく見えたのが、存在である、それが後々ハイデガーが大きな研究から哲学的思惟に発展させますが、フッサールは私たちに形而上学を破壊する一手を実践したのは明らかです。

最後にやや難しいエクリチュールですが、フッサールの超越論的認識に批判した言語についての記述を見たいと思います。

 

「まず最初に、言語の問題を経由しなければならないのである。そのことは、驚くにあたらないだろう。言語こそはまさしく、現前と不在のそうした活動=戯れの媒体なのである。そこで生とイデア性が一つに結びついているかもしれないと思わせるものが、言語の中にはありはしないか。言語とは、そもそもそのようなものではないのか。ところで、われわれは一方で、あらゆる形式をもとに、同時にイデア性と生き生きした現前性とを最もよく保持しているように見える意味作用の構成元素(エレメント)ーあるいは表現の実質ーは、生き生きした話す言葉(パロール)であり、フォネー(声)としての息の精神性であることを考慮しなければならないが、他方で、現象学、つまりイデア性の形式における現前性の形而上学は生の哲学でもあるということを考えてみなければならない。」

 

 

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最後に

私たちがこうして取り組んでいる対話ですが、今回の記事でフッサールにデリダが形而上学に対して批判しながら、新しいジンテーゼに挑戦する連関を一緒に見て頂きましたが、形而上学が現前性を作っていて、それがイデア性と形式が絡み合って、私たちが気づかないうちに、思い込むというかたちで世の中を見ている真実に気づけました。

それは、認識という思考の選択で、古代ギリシャから今回挙げましたフッサール、そしてその後の時代に現れるハイデガーに至るまで、形而上学は解けませんでした。

私たちは未熟ながら、形而上学が人間の思考をありのままの生を歪ませ変装した人間とは解離した違う運動性を持つ生で私たちは生きています。

最後にデリダの引用したエクリチュールに、とても重要な意味が含まれていました。

 

「・・・生き生きした話す言葉(パロール)であり、フォネー(声)としての息の精神性であることを考慮しなければならないが、他方で、現象学、つまりイデア性の形式における現前性の形而上学は生の哲学でもあるということを考えてみなければならない。」

このエクリチュールの意味は、デリダ自身も人間が形而上学に陥ることを認めています。

私たちは、この形而上学という思い込みを超えられないのでしょうか?

フッサールは、言語を記号に変換できましたが、超越論的認識と言ってしまったのは、言語にイデア性を含有させてしまい、形而上学にとどまってしまいました。

そんな大事業を私たちもやろうとしていますが、私たちの対話シリーズは、プラトンの対話編を目指して、実践しているのです。

お分かりですか?

私たちは形而上学にのっとって、やってしまっているこの記事。

形式が反復を生み、飾られた思い込みの現前性を生むことを、私たちは自らの手で、自分たちを汚してみようと思っているのです。

哲学的思惟の実践。

それは、過去の哲学者のエクリチュールに徹底的に入り込み、その中で私たちが立っていられるところから、素直に、何事も屈折なく、偏見なく、曲折なく、そのままついていく。デリダはその運動性を忠実に実践し、困難な山は困難なまま登っていく。なだらかな曲がり道には、なだらかなまま曲がり道を進んでいく。これがデリダが教えてくれている、私たち人間の思考の巧みな、自由旋律なのです。

 

 

 

written by 萩原

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