難波座裏「イタリアンバル ピエーノ」にて

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難波座裏「イタリアンバル ピエーノ」にて

時間に追われ、一日の業務を遂行するのが精一杯の毎日。

忙しいと言ったら終わりだと、私たちは考えている。なぜならば、私たちは哲学的思惟を選択し、挑戦するものとしては、生きることを生と捉え、その生は自分で選択していると解釈するからだ。

忙しくしているのは、誰なのか?それは私だとなる。

これは、命題と対照命題の掛け合わせて新しいジンテーゼという問いかけによって導かれた一時的な不完全の機能を持つものが、私たちの挑戦である。

この取り組みを哲学的思惟といって、もっと専門的にいうなら、弁証法という。

私たちは、弁証法を通じて、対話というスタイルを崩さずに実践し、新しい選択を率先して、現実に行き詰まる人への刺激になるだろうと期待しながら、行なっている。

だから、それにより、忙しいからといって、この対話方式で問いかけ合うことをやめるわけにはいかない。

それは、作業着販売を行なう会社を経営するベンワークウェアの松本とフリーでパーソナルトレーナーを行なう萩原の二人は、哲学的に関わりあうことを世に伝えるビジョンを打ち立てたため、私たちは何が何でも、この対話方式を続けていこうと思っている。

この思いは私たちが今日まで生きてきた中で、悔しい思いや経験、そしてそこから生まれたさらなる期待や希望に基づく私たちの体内を巡る血液に含まれたホルモンの活性からくるものでもあるのだった。

 

tak:哲学的思惟を語る前に、松本さんに情報の捉え方についてお聞きしたいのですが、ネットではヤフーニュースなどでコメントを書く欄がありますが、いちいち小さなことでも、コメントを書いている人がいます。

大抵、白か黒かなら黒だといった一方方向の答えがズラッと並んでいるため、これもメディア誘導の仕業かなとも思いますが。

確かに、ヤフーニュースの記事の内容には、疑問を持たないといけないぐらい、内容の薄い記事もありますが、ここでネットに必要な記事とはどのようなものが適しているのかを教えて頂きたいです。

matsumoto:そうですね。私自身も時間に空きができるときに、簡単にヤフーニュースを開きますが、その内容というのは、あくまでもネットの構造による閲覧数を増やすための記事であって、そこに本質を求めるのは、違うのではないかと思いますね。

tak:なるほど。ヤフーニュースという表記も違うのかもしれませんね。

決してニュースではなく、記者が知った情報をただ載せ、しかもなるべくたくさんの記事数にするために、結果が出てなくても、そのある話のあらすじだけを簡単に載せるというのも、別に不適切ではないわけですね。

matsumoto:そうなんです。Googleもニュースのフォーマットがありますから、そこにもヤフーニュースと同じ内容の記事はたくさんあります。

やはり、ヤフーやGoogleは、たくさんの人がそこに見に来ているのが分かれば、必然的に宣伝広告のスポーサー売上が増えるため、記事数を増やすためには、それだけの事件や出来事は世の中にありませんので、仕方がないこともあるのでしょう。

tak:私はこうして松本さんと哲学的思惟を対話によって、自分たちが実践するシーンを伝えようとしていますが、今日におけるネットの一般の方による見方や使い方が気になり、ヤフーニュースのコメントをよく見るのですが、単なるヘイトであるものが多く、ネットという媒体の質はどうなのかなと思っていたのです。

これから先も、ネットとはそのような運営になっていくのでしょうか?

matsumoto:Googleは絶えず、アルゴリズムを変化させ、スパズム的な質の悪い記事をやめさせようとしていますので、そのあたりのペナルティーは厳しくなると思いますが、無料で見れるのがネットの強みなので、そこは必然的に視聴者の支持によって、選ばれていくのではないかと思いますね。

 

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tak:ところで、私は最近出会った哲学者でヤスパースという人物がいます。デリダの書物を求め、古本屋や図書館でいろいろと見るのですが、そこで実存主義から派生する哲学者のようですが、松本さんはご存知だと思いますが、どのような印象をお持ちですか?

私が哲学的思惟を実践するうえで、ぶつかる壁が、哲学の根本的な目的そのもので、何のためにそれをするのかが見えなくなるときがあります。

デリダ的なエクリチュールで表現するなら、そこが余白であり、そこに差延があるからと言って、さらに哲学的思惟を進めるんだと彼が生きていたら、そのような助言をくれるだろうとは思いますが、松本さんの哲学的思惟で生まれる諸々のご自身の反応を聞かせてください。

matsumoto:ヤスパースは、私がハイデガーを読むときに、同時に出会ったドイツの哲学者です。

ハイデガーが非常に著名であるため、ヤスパースは忘れがちになるのですが、ハイデガー以上にヤスパースは実践的哲学を行なった形跡を残しています。

哲学者というのは、往々にして専門分野にその内容を派生させ、分化させ、細分化し瑣末化(さまつか)していく傾向がありますが、ヤスパースはそこを問題視して、ある時期著作を出版するのを抑え、哲学史を見直し、哲学そのものを見直した人物です。

tak:不思議なぐらいヤスパースの考え方と実践はしっくりときて、腑に落ちる感覚が私の中で生まれました。

おそらく、世の中が頽廃し、社会にエネルギーを奪われ、大衆である私たち自身にエネルギー供給が失われたとき、二つの選択が現前に現われるのだと思います。

さらに専門分野に特化し、特徴を世の中に発信して、世の中から承認を得て、認知させようとする動きとヤスパースのように本質に立ち返る動きをする人がいます。

この二つの選択は、世の中の状況を如実に伝えていて、さらに瑣末化し頽廃化を進める動きと本質に戻ろうとする動きは、私が感じるのは、前者が強いのではないのかなと感じますが、松本さんはどのように思われますか?

matsumoto:最初のお話に出ましたが、ネットの構造は、まさに閲覧数を煽るために、瑣末化したコンテンツを助長している動きを高めているのは、間違いないなと思います。

世の中の構造は、今日において、どうしても特定の媒体を介するため、そこの影響を受けてしまいます。

ネットを通じて情報を発信するには、その構造の特性により、瑣末化するのは防げないことはやむを得ませんが、私たちが実践するこの対話による哲学的思惟を実践するやり取りを発信するのは、頽廃と還元し再生化するにはとても面白いのではないでしょうか。

 

(マスメディアと大衆。 私たちは現代に生きている限り、マスメディアの影響は避けられない。テレビを若者は見なくなったけれど、今だにテレビは存在する。テレビ産業はスポンサーありきで組織化されているため、スポンサーの意図を妨げる番組は作れない。瑣末化はテレビの番組構成を見れば、著しく分かってくる。スポンサーに合わせた、ありきたりで、当たり障りない番組内容は、視聴率を低下させる要因になっているのは、否めないが、テレビはそれが構造でやっていくしかないため、テレビの運命は頽廃に向かう以外ないだろう。しかし、大事なことは、私たち大衆はその巨大なマスメディアの媒体に対する対立対象として、適切な弁証法的な思考の取り組みによって、哲学的思惟を発達させるかである。マスメディアに対してヘイトやバッシングするだけでは、私たちも同じ頽廃の運命に向かっていくだろう。大衆向けのマスメディアの権威が落ちるという今日の状況は、私たち個の生を高められる絶好の機会である。その代わり、ただ待っているのでは頽廃に進むが、私たち自身が自己との対話を繰り返し、個々が哲学的思惟を持てるようになるなら、私たちは世の中を引っ張ることが可能になる。)

 

tak:よく分かります。そうなると、現象学をフッサールが立ち上げ、その後存在についてハイデガーがまとめましたが、そこから哲学は現代に引き継がれていない現状を知ると、どちらかといえば、名前は著名として後世に残しましたが、一般化できているといえば、決してそうでないのは、やはり瑣末化だったのかなと疑わざるを得ません。

ヤスパースは著書「哲学」というタイトルをつけ、世に発信しましたが、ヤスパースの哲学とは、やはり根源的な哲学を追求することに定置していたのですか?

matsumoto:よくお分かりですね。さまざまな部分で未知なることに、想像性を取り入れていくことはとても大事なことですね。

そうなんです。ヤスパースは主著がこの「哲学」という書物となるのですが、ハイデガーが行なった哲学とは一線を画すものであり、ヤスパースは徹底して実践的で実存的な哲学を目指しました。

興味深いのは、ハイデガーとヤスパースの今で言う手紙でのやり取りが残されていて、「ハイデガー=ヤスパース往復書簡」という書物も残されているぐらい、ハイデガーとの啓蒙も大きな影響をヤスパースの哲学に与えているのも事実です。

 

「どこまでも本質的なことは、ついに哲学において今日、あなたのご著書によって、何か不可避的で全体的なものが現存するに至ったという点です。」(ハイデガーがヤスパースの著書「哲学」を献呈に対する返礼の手紙の内容)

(ヤスパースは、徹底的に教壇哲学に対抗し、思弁的ではなく、実存から自己に気づき、その実存が消えたときに、本質的な生の感覚が生まれ、そこに向き合うことに重点を置いた哲学だった。私たちがお伝えしたいのは、さまざまな哲学が西洋哲学において残存していますが、どうしても哲学が時代に合わないと思われる要因がこの思弁的であり、論述的すぎる部分です。私たちはこの現代に生きている今の環境は、生産活動において、日々巡り巡るマーケット(市場)に対応するために、知恵を振り絞り、なかなか実存について問いかける余裕はありません。そんな中で、哲学は私たちにとって、生産活動や経済活動を超える生から発するものであるのですが、そこに残存する思弁的なものが、私たちに哲学への気難しさを与えてしまっています。私たちは生きていて、自由に使える時間はそれほど残されておらず、経済活動をするだけで大半の時間は奪われますが、この頽廃したマーケットは薄利多売により、そして過剰な宣伝広告による売上促進活動によって、情報に信ぴょう性がなくなっているのが、事実です。世界中の全員が精神性を高める機会を失い、私たちは誰もが貧しい現実を迎えなければならないのですが、それを前向きに変えられるのは、哲学だけなのです。私たちに最も近いのが、今回取り上げているヤスパースの哲学です。)

 

tak:ハイデガーは20世紀の哲学界に「現象学」という哲学的潮流の中にあって今風に言うなら、一世風靡したと言えますが、その中にもブレないで、ヤスパースは時代に流されずに、哲学の本質に目を向け、そこから説こうとしたことは、驚くべき信念だなと思います。

ヤスパースはなぜそのように哲学を回帰的に見直すことができたのでしょうか?

matsumoto:そうですね、ヤスパースはもともと新カント派と言われる派閥に存ずる哲学者で実存主義の哲学に触れていました。

そのような実存主義に対して対抗するように、実存について思弁的でなく、社会学的に見直していたマックスヴェーバーという社会学者がいました。

ヤスパースは、そのヴェーバーのサークルに出入りしていました。そして、ヴェーバーは現代という時代の実存的課題を生きた「実存的な哲学者」とみなしていたヴェーバーが亡くなったことをきっかけに、「哲学」に対する使命感を目覚めさせるきっかけになったのです。

そのヴェーバーの死から哲学に対する引き継ぎをヤスパースは確信し、著作が遅くなったとしても、自己に向けるための哲学をしようとし、ヤスパースが書いた「自伝」にもそのあたりの表現が記述されています。

 

「哲学が何であるのかを証して、偉大な哲学者たちへと目を向けさせ、・・・若者たちのうちに本来の哲学に対する感覚を鼓舞する。」(ヤスパース自伝より引用)

 

(マックスヴェーバー。1864-1920。ドイツの社会学者。経済学者。

主な業績
ヴェーバーは、西欧近代の文明を他の文明から区別する根本的な原理は「合理性」であるとし、その発展の系譜を「現世の呪術からの解放(die Entzauberung der Welt)」と捉え、それを比較宗教社会学の手法で明らかにしようとした。そうした研究のスタートが記念碑的な論文である「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(1904年-1905年)である。

また、ヴェーバーは、社会学という学問の黎明期にあって、さまざまな方法論の整備にも大きな業績を残した。特に、人間の内面から人間の社会的行為を理解しようとする「理解社会学」の提唱が挙げられる。

さらには、純理論的にある類型的なモデルを設定し、現実のものとそれとの差異を比較するという「理念型(Idealtypus)」も挙げられる。また、政治的価値判断を含む、あらゆる価値判断を学問的研究から分離しようとする「価値自由(Wertfreiheit)」の提唱も、大きな論争を引き起こした。)

 

tak:松本さんのお話の中で、哲学を追っていく哲学史が献身的な話の展開が理解を深め、さらなる史学を極めたいと思う衝動を作り出してくれています。

この19世紀から20世紀は著名な実力派哲学者や思想家がたくさん生まれ、お互いが影響し合って、それが現存を上回るための批評によって高め合ってるなと感じます。

この状況が、今日の哲学が日常から失われていることに痛感し、寂しい気持ちに襲われます。

だからこそ、私たちがそれを担わなければと、さらに哲学に向けての念が深まるため、有難いなと思い、そのような教えをたくさん頂いている松本さんにも大変感謝が生まれます。

ヤスパースは、このヴェーバーの死によって、哲学についての信念をかなり高めたというエピソードがよりいっそう人間的なヤスパースを現していますね。

matsumoto:私もそう感じます。ヤスパースは最初は精神医学研究により、しかも当時の精神医学分野で最先端であったハイデルベルク大学精神科クリニックで研究に従事し、見事著名な精神医学者として名を馳せたのです。

そのうちヤスパースは、当時の精神医学は、人間を物理学、化学、数学という観点から自然科学的に「もの」として捉えていたため、そのような機械論的医学の視点からひたすら人間を「もの」として捉える人間研究がなされてきたはずだと推察できます。

要は、ヤスパースの功績は、はじめは人間を自然科学的に捉えた分野にして、その後、ハイデガーを含め、先に言いましたヴェーバーの影響によって哲学に変換してきたことに真実性があるように思います。

tak:松本さん、なるほどよく分かります。ヤスパースに関するいろいろな書物を読んでみますと、ハイデガーに比べ、ヤスパースの哲学は稚拙(ちせつ)だと論じられていることが多いみたいですね。

私が感じたのは、哲学の今日の衰退状態は、哲学界の世界が閉鎖的であり、先に言われた教壇的で思弁的だったことが、今日の経済活動を優位に立たせた要因があるのでしょう。

ヤスパースはもともと精神医学から哲学に入ってきたという短絡的な見方が、哲学界での地位は得られなかったことが、なおさらヤスパースという哲学を実践した一人の個に目を向けられる契機になるんだろうと思います。

私たちのこうした対話編で、哲学界ではマイナーモデルである一人の哲学者を追っていき、単なる学術的論文だけで評価する真理のない哲学の稚拙(ちせつ)さを逆に説くことができるのではないかと思います。

matsumoto:萩原さん。とても活かした目線ですね。哲学は、一般化されるべき学問ですが、哲学界の権威争いなどによって、著名な人のコンテンツ(文脈)より、著名な固有名詞が先立つ学閥のような、無念な現状を繰り返してきました。

そうなると、そこを打破するために、コンテンツから哲学に入り、たとえその一部分であっても、弁証的に私たちの生活の中に、哲学的思惟に繋げる新しい見方として、導入すべきです。

これは、デリダも「ニーチェ的」だと言って、ハイデガーがニーチェを取り上げた「ニーチェ」という著書を翻訳不可能(脱構築できない)ものとして、痛烈に批判しています。

tak:なるほど。松本さんのお話は自然と哲学史に基づいた展開になっていて、今回取り入れている19世紀や20世紀の哲学の流れがよく分かります。

私たちは、ヤスパースを知るのではなく、ヤスパースが実践した実存に対する弁証的な哲学に目を向けるべきなのですよね。

松本さんが言っていることとてもよく理解できます。ヤスパースが説いている哲学的思惟にまずは、目を向け、そこに疑いもなく。ただ付いていき、寄り添うように、エクリチュールの傍(そば)から徹底して追っていく実践が私たちには必要なんですね。

 

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「だか、もしもわれわれが問いを問う上でニーチェを西洋形而上学の最終段階として捉えることがないならば、そして、存在の真理への問いというまったく異なった問いへと進んで行くことがないならば、本来の著作の提示を果たすことは決してできないであろう。」(ハイデガーの著作「ニーチェ」より引用)

(この引用に対して、デリダはハイデガーの中で現前する形而上学に強い問題意識と、批評を投げかける。

「存在論を越えたところで存在の真理についての問いをたてる、ニーチェの位置を西洋形而上学の最終段階として規定するーこれが、予め立てられた条件であって、それを果たしたうえで時と場合によってはそこから彼の「伝記」や名前、そしてとくに断簡零墨を含めたテクストの総体としてのニーチェに迫ってもよかろうというのであり、それを果たしたうえで「ニーチェとは誰であったのか」を経験しうるというのだ。」

(このデリダの記述に意味を解釈できるだろうか?分かりやすくエクリチュールしていくと、ハイデガーは著作「ニーチェ」のタイトルにニーチェという固有名詞を使った。ハイデガーは存在についての真理を果たすために、そこから問いに向かっていくために、ニーチェそのものが形而上学に対する問いになるだろうとハイデガーは考えている。これは、当時の最大の思考であり、デリダはそこに特定の歴史的・政治的な状況のなかで正当化しうるものすべてに注意を払うべきだと言っていて、ハイデガーの時代はこの思考が限界であった。ニーチェのイメージは、その表記の中に意味が含有されていると規定したのはハイデガー自身であって、もし私たちが同じようにニーチェと聞いて、存在を問うことが共通しているなら、政治的な介入がもともと規定されているから起こるのだとデリダは批評する。)

 

matsumoto:私がこのヤスパースの生にすべての全身全霊のエネルギー供給の展開、それは前述しました精神医学から哲学への変換が、私たちの今日の頽廃し、縮小したマーケットのなかで、自分の居場所(企業なら自社)を、本質への問いかけ抜きで行おうとしています。

今日の瑣末化から末梢化、さらには私たち自身の思考の機能低下による混沌化(カオス化)は、ヤスパースが当時全盛だった哲学界の現象学との比較と一致すると考えることができるでしょう。

要するに、ヤスパースのような経歴を受け入れる社会構造が必要であるのと、その社会構造に埋没し、自己を失っている私たち自身は、そのまま同一化しても良いぐらい、ヤスパースと同じ道程にあることを伝えたいのです。

そして、ヤスパースは「哲学」という著書で解明したかったのは、「人間存在解明」だったのです。

tak:単純に哲学を追っていたら、全然見えてきませんよね。

ヤスパースは現代医学において、精神医学の狭い世界の中で、自然科学に基づく精神分析を患者に実践しながらも、どこかでその方法論に懐疑的なところがたくさんあったからこそ、たまたま偶然にも、その契機は、伝記的にはヴェーバーが亡くなってから、哲学的真髄を求めたと多くのヤスパースを説く他の書物にはありますが、それまでに何度も哲学的思惟により、精神医学が人間に合わないところが見つかっていたのだろうと推察できますね。

私たちが今就いている仕事(職業)は、ある意味で、生活のためと割り切っている人が大半ではないかと思うのですが、ヤスパースは精神医学の分野で名声をあげようとしていた矢先に、哲学界への転身ということは、ヤスパースが本当に残りの限りある生の時間に何をすべきなのかを、彼なりに何度も苦しみながら説いたことが、生きる選択の変化を促したのだと思います。

私たち自身、ヤスパースの生き方を根本的に見習う価値がすごくありますよね。

なぜなら、彼は自分の生を通じて、哲学的思惟に連関していますので、ヤスパース自身の経験と人間に対する経験からきています。

私たちもそうなるためには、今就いている仕事にも向き合い、それが本当に適切で、私たち自身に合っているのかどうか、それ以上に有限なる残りの生命に適しているのかどうかを問うためには、哲学的思惟がいるものだと、ヤスパースから学ぶ機会が得ることができますよね。

 

matsumoto:ヤスパースの自伝にはこの転身についての本音の記述が残っています。

 

「当時の目標といえば、哲学とは名ばかりで、実際は心理学として存在した哲学講座で、心理学を説くことなのでした。」

(ヤスパースは、精神医学の生教授としてハイデルベルク大学で、他の大学への精神医学での招致があったため、彼はその要請を断ると共に、折しもその著作「世界観の心理学」に対する高評価から、同大学の哲学部の店員上の哲学助教授になった。彼は精神医学の功績の評価によって、哲学に転身した後すぐに、哲学の教鞭を取ることができていたのだった。)

 

ヤスパースの哲学的思惟が難しく、そこまで理解できないとして、哲学を実践した哲学者の一人として、その実存する生き方そのものや、思惟に至るまでの苦悩の経験に寄り添うだけでも、私たちにとって未来に対する見方の更新になるのだと思われます。

 

tak:ヤスパースは精神医学の時代にも著書を出しているのでしょうか?

ヤスパースについて松本さんの話を聞くと、ヤスパースがまるでそこにいるような気になるのが不思議な感覚です。

調べますと「世界観の心理学」という著書がありますが、これはどのようなコンテンツになっているのでしょうか?

matsumoto:今挙げられたヤスパースの著書「世界観の心理学」は、精神医学から哲学への道に入った後に出された著書になります。

この著書の中でヤスパースは哲学の意図を繰り返し述べています。それは、アリストテレスの概念で、「霊魂は或る意味ですべての存在者である」です。

ヤスパースはニーチェの影響を受け、心理学から哲学に命題を連関させて考えています。

このアリストテレスの命題は、すべての存在者が心理学的考察の対象となりうるのであり、霊魂の主体としての人間もそうだということになって、心理学は人間考察のための哲学への道となると説いています。

tak:なるほど。日本では心理学と哲学は全然違う学問だと考えられてますよね。

心理学と哲学は日本において、ほとんど発展はしていないように思いますが、ヤスパースは精神医学から心理学に繋げ、そこから哲学に広がる思考は、私たちがそこに立てるのなら、もっと自己を見つめるためにも、必要なエクリチュールだなと思います。

tak:そうです。ヤスパースは心理学の哲学的性格を回顧して、次のように語っています。

 

「私の心理学は私の意識しないうちに広い範囲にわたって、私が後に「実存開明」と名づけたものの性格を受け入れた。この心理学はもはや単に事実と出来事の規則との経験的な確認ではなく霊魂の諸可能性の企画であり、これらの可能性は鏡に映すように、人間は何でありうるか、人間に何ができるか、人間はどこへ至りうるか、これを示すものである。かかる洞察は、私が本来的に意志するものを内的行為において選択するための自由への訴えかけを意味している(ヤスパース著  私の哲学について)。

とありますが、意味を解釈することはできますか?

tak:私が思っている心理学は日本での学問的分類ですので、困惑しそうですが、ヤスパースは心理学を霊魂と関連付けてますが、そこに深い意味がありそうですね。

単なる出来事ではなく、そんな狭義の範囲でもなく、霊魂という人間の根本との連関だから、ヤスパースは哲学が、それを心理学と呼んでいると思いますが、人間の霊魂が発する人間への問いを持っているという解釈なのではないでしょうか?

matsumoto:萩原さん、適切な解釈ですね。

今のヤスパースの文脈にあった「・・霊魂の諸可能性の企画」が彼が目指す哲学の概念になるのです。

ヤスパースの哲学を解釈すれば、アリストテレスも同時に理解が深くなっていくでしょう。

霊魂は何か根本的な可能性を秘めているという意味があるとヤスパースがいうのは、アリストテレスが残した命題だったのです。

アリストテレスは著書「形而上学」を残しましたので、デリダならこのヤスパースの哲学的思惟に関して、痛烈に批判するかもしれませんね。

tak:なるほど。松本さんが今日まで何度も問いかけ続けた形而上学ですね。

デリダがハイデガーのニーチェ批判にもあるように、ヤスパースの哲学にも当時そう思わされていたと推察できる現前かどうかを脱構築しながら、追っていくのが哲学的思惟に活性するには適切なのでしょうか?

matsumoto:萩原さん、今まで私たちが実践した対話編の成果が現れてますね。

形而上学は古代ギリシャの偏った見方でもあるでしょうし、それに権威が付け加わり、それからキリスト教に発展したという背景も必要です。

ヤスパースは心理学から哲学へと、他の哲学者にはない介在ですが、見逃してはならないのは、形而上学にどこまで近づき、脱構築できているかですね。

tak:ヤスパースは比較的容易に、哲学者として同大学で教鞭を取ることや「世界観の心理学」を出版することで、道は順風に広がったのかなと思う出来事ばかりですが、哲学者として、あまり知られていないのは、当時、ヤスパースが世に出るまでは、現代の哲学のかなりの風向きは現象学に傾いていたため、その影響があったのでしょうか?

matsumoto:それは確実にあったのです。ここで不確かなのは、哲学はヤスパースが哲学に転向したときも、現存した哲学者から猛批判が生まれました。

それぐらい哲学には哲学の世界や派閥があって、最初から哲学をしていない人を認めない時代でした。

(この文脈は、今でも大いに残っている。このヤスパースの時代も大学で教鞭を取り、生計を立て、著書を出版した印税のようなものが収入源となっていたため、今の哲学者も同じく、変わらない状況。これが哲学の発展、発達を妨げていることは間違いなく、当時ヤスパースが出版した「世界観の心理学」はそれまで哲学界で優勢だったフッサールやハイデガーよりも世に知れなかっただけでなく、著名な彼らでさえ、どれだけ一般人に読まれていたかは不明である。そう考えれば、ヤスパースの時代と私たちが生きる現代である今、何ら哲学レベルの思惟というのは、まったく発達していないと思って良いであろう。だからこそ、私たちは対話編を通じて、適切な哲学について書き言葉に残し、適切で機能的な哲学的思惟によって哲学が人間の根本を構築するのかを、私たちの実践を通じて、実体化しようと考えている。私たちが生きる今、時代はますます頽廃し、その頽廃を見えなくするために、私たちはマスメディアで促される弱者への劣勢や個人の自己責任論を強め、未来という形を失ってしまっている。権威はこれからますます弱体化するであろう。いや、そもそも権威は弱いからこそ、本質でないからこそ、より強めようとする外部へ拡散しようとする運動が発生している。私たちは、今権威が弱体化してるからこそ、私たちの生を通じた非ー合理性、非ー非合理性について問いかけなければならないのである。)

 

tak:哲学は宗教のような信仰とは違って、一から私たちの個の内面に入力しなければならないため、どうしても浸透するスピードに不利さがありますよね。

キリスト教は哲学的信仰を抑制し、信仰だけを残したことのように、私たちは哲学と独自性をうまく連関し、オリジナリティーにしなければならないのですね。

matsumoto:そうですね。哲学がなぜ気難しく、面白くないと思われるのでしょうか?

この問いに対する回答を一旦私たちの中で目立つように、信仰がそうであったように、一度は分かりやすい旗を掲げなければ、哲学が無の状態になっていることに気づかなければならないです。

そのような部分からも、この度取り上げたヤスパースの精神医学からの転身は適切な題材になり、参照することになるでしょう。

ヤスパースがどのように哲学に惹かれたのかに、さらに目を向けていきたいと思います。

ヤスパースは、第一次世界大戦の意義について、みずからの自伝「哲学への道」と結び付けた次のような記述を見つけました。

 

「1914年に世界大戦と共に、われわれヨーロッパ人の生存の大なる破壊が到来した。世界大戦前の、あの楽園のような、精神的にどんなに崇高であろうとも素朴でありえた生活はもはや決して帰ってこなかった。今や、真剣さに包まれた哲学が以前より遥かに重要となった」

tak:やはりこの時期、世界大戦が人々の考え方を変えたことが手に取るように分かります。私たち日本人は、第一次世界大戦より広島や長崎に投下された原子爆弾の結果からか、第二次世界大戦の記憶が強いですが、ヤスパースの時代は第一次世界大戦からですね。

matsumoto:その通りです。デリダ、バタイユなどの19世紀から20世紀に活躍した哲学者は、第一次世界大戦の影響を最も受けています。やはり、西欧(ヨーロッパ)から発生したため、その出来事としての問題感は大いに私たちより高くなっています。

その時代背景から、第二次世界大戦に繋がり、何よりもナチスドイツによるユダヤ人迫害やヒトラーの考え方が、それまで古代ギリシャの哲学がロゴスによって確立していた人間は道徳観を形而上学によって持っていることをも否定されたわけです。

さらにヤスパースは、もう少し視野をひろげて世界大戦を位置づけ、みずからの哲学と連関させている。それが次の記述です。

 

「第一次世界大戦が到来し、その次に戦後に、多くの善意もあるが、それ以上に大きな、悪しき盲目の力のエネルギーを伴った興奮の時代が到来し、さらにその次にナチスの時代が到来した。1914年以来、各人をまた個人的な生存の動揺が襲った。私の哲学する思索はそれによって少しも破壊を受けなかった。極端なこと、すなわち限界状況が私の哲学にとっては最初から根源であった。」

 

tak:ヤスパースの記述は説得力がありますね。大きな世界大戦が起きても、ヤスパース自身の哲学性は揺るぎなく、そこにい続けたと。他の偉大とされる教鞭的で思弁的な思考の強い哲学者なら、世界大戦によって、哲学の連関をそれに合わせ、変化させそうですもんね。

ヤスパースは、実存開明と言われるぐらいだから、自身の内部活動によって、哲学的思惟を実践してきた意識がかなりよく伝わり、私たち自身に近いなと思います。

matsumoto:本当に私もそう思います。今回の命題は、私たちが実生活で哲学的な見方を行なうためにどうすればいいのかに、今二人の中点が定位した感じですね。

最初は、文脈として抽象的に入っていくときもあれば、具体的な事象があってそれをテーマに、そこからの無規則な(文脈構成は、必然的に表記の限界により制約がかかるため、文脈は極限まで自由に入る方がエクリチュールとして機能していく)私たちのその日の感覚もあったりして、このような展開は、私たちに合っていて、しかも現代的であるように思います。

ヤスパースの哲学が私たちに入っていきやすいのは、精神医学からの転身もありますが、ヤスパースは実存に目を向けたのと、いっさいの価値基準を体系化せず、人間が持つ根本的な生に直接目を向けた独自の哲学性が、私たちにとって独特の哲学の色付けが消失させているため入りやすいのではと思えます?

tak:いろいろ私もヤスパースについて調べてみましたが、精神医学から転身したことで、著書に対して文体が稚拙であるため、哲学に値しないなどと批判されているようですが、ヤスパースが著した「哲学」という著書を読みましたが、私自身の未熟な哲学性がそうさせたのでしょうが、あまり文体が稚拙であるのかは、分かりませんでした。

matsumoto:私もヤスパースは結構熟読しましたが、文学者でないため文体の技術であるメタファー(隠喩、いんゆ)が少なく、至ってシンプルに端的に記述していると感じました。

またドイツ語を日本語に翻訳しているため、日本語で表記するとますます単調に感じる傾向はありますね。

しかし、メタファーがうまく使われた文体だとイメージしやすいですが、哲学としての哲学はあまくなるかもしれません。

端的ですが、一文一文を丁寧に、読み込むと、ヤスパースが彼以前の時代の哲学に対する批判も含めた、文体からの運動性が彼の苦労と共に感じ取れる内容であるように思います。

tak:なるほど。松本さんは書評が抜群に上手いですね。作業着販売する方とは思えないぐらいの表現ですね。

松本さんが言っているように、ヤスパースはそういう部分からも、哲学がビギナーであっても、とっかかりとしては、介入しやすいのでしょうね。

私は松本さんの影響から、さまざまな哲学に触れましたが、これだけシンプルでかつ、他の哲学者の影響を受けすぎていない人物は珍しいように感じました。

matsumoto:哲学というのは、批判を繰り返すことで深みや渋みが出て、命題の断層が一段地底に下がります。このヤスパースも、そのように批判を受け、そこからヤスパースはさらに自身の哲学性を高めました。

それは、ヤスパースが教授をしていたハイデルベルク大学哲学科の主任教授であったリッケルトという人に、ヤスパースが唱えた哲学の中で、価値基準の体系化をすべきだと批判したのです。

tak:ヤスパースは、生から人間を見るべきだと説き、むしろ価値基準の体系化を認めないというのが根底にありましたよね。

私はとても腑に落ち、よく理解できたのですが、その考えに批判をするのが、哲学の取り組みの本質だというのがよく分かりました。

ヤスパースの哲学が本質という哲学的大地に近づいたのは、このリッケルトのお陰ですね。

そのリッケルトは、価値基準の体系化が本質だと言っているのは、それはそれでそれなりの根拠があるのですね。

matsumoto:はい。リッケルトの根拠は今持ち合わせていませんが、哲学は弁証法という論理性から解釈していくため、そのおおよそは仮説立てをすることができます。

ヤスパースは、そのあたりを科学と哲学を比較して、科学は合理性と非合理性を作り出し、そこから説かれた概念はすべて科学性を含んでいると考え、これらの両極性は生を感じ取る実存という本質を混乱させると言っています。

リッケルトに批判されたヤスパースは、価値基準を体系化を確定的に定めない理由を次のように述べています。

「論理的真理の妥当することの承認に対しては理論的明証一般が承認されることが前提であるが、価値序列を主張する人生論にとっては、それと同様に価値相互の優劣一般の名証性の存在を肯定するだけでは十分ではなく、それぞれの人生論に対してはそれに特種的な価値序列の承認が前提として必要である」(世界観の心理学)

tak:こうして見ると、なかなか解釈が難しいです。でも何回も目を通さないと分かりませんね。

論理的真理とは、哲学のことですよね。価値序列を主張する人生論とは、リッケルトが述べていた価値基準の体系化にかかっていますので、そのためには、ヤスパースが言っている生の運動よりも、より特種なより人工的な価値序列がいるという解釈になるのでしょうか?

matsumoto:哲学的解釈はこれぐらい一回で理解できない方が、私たちの思考は活性化し、成長していきます。

ヤスパースに対する対立された哲学性をリッケルトは述べているため、ヤスパースはそこに批評という運動を入れ、ヤスパース自身の哲学性をより活性させ、深めようとしています。

そのような論理性で文脈を追っていくと、リッケルトは価値序列を体系化するのが哲学だと言っているけれど、ヤスパースはそうじゃなく、それを体系化するなら、そのためにまたもう一つ特種な価値序列が必要だよと言っていますよね。

要は、生に特種な価値序列や論理性、信仰性のいずれも必要ではなく、それらが発展したのが、科学なんだと言っているのです。

tak:なるほど。哲学史も今までの松本さんの対話のお陰で、記憶が立ち直ってきます。

理解できてくると、非常に深みが出てくると自分でも分かってきます。

ヤスパースは生から人間は生きようとすると考えることで、そこには決して体系化する事象は何一つないのだから、それをするなら、それは世界大戦を引き起こした科学になり、さらに今日のように、自己都合ばかりの利益主義を増やし、哲学の弊害が起きているではないかですね。

matsumoto:そうなっていきますね。ヤスパースは哲学を原初に立ち返そうとしています。

そのために、決して参考文献は多くないですが、その分、ヤスパース自身の精神医学の分析の経験から、哲学史に残る他の誰よりも、シンプルで、なおかつ私たちにも触れやすい哲学の展開が並べられ、私たちに哲学の根本的な意味を伝えてくれていると思わずにはいられません。

次回は、ヤスパースの哲学を引用し、私たちが触れやすく、一般的な生活の中に導入するところを一緒に実践していこうと思っています。

tak:松本さん、ありがとうございます。この対話編が読んでいる方の生に少しでも刺激され、高められ、一度しかない生に向き合えることになればなと思います。

松本さんの苦しみや哲学的思惟がこの世で役に立つなんて、とても素晴らしい話ですね。

 

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(ヤスパースが言いたかったことは、至ってシンプルです。私たちは生の湧き出る運動によって、放っておいても、人間について考え直し、人間がこの地球上でできることは特定できるし、あなたという唯一無二な存在は、存在自身を尊く思い、自然に平和というのは、求めていくものです。

しかし、この世はどのように今動いているのでしょうか?

世界平和というより、他国をヘイトし、自分の身を守り、自分だけが満たされたらいいと思うのが、今の価値基準になっています。

ヤスパースを批判し、ヤスパースも批判したリッケルトの哲学性は、価値序列を体系化することでしたが、それがまさに今の世の中には行なわれています。

例えば、学歴だったら、職歴だったり、さまざまな肩書きです。

その権威を手に入れるために、小さい頃から子供を塾に行かせ、学歴を求めさせ、さらには所得が追いつかず、奨学金を受けてでも大学に行き、その奨学金は返済できずにいる若者が多くいるのです。

これが、無理のあるリッケルトが唱えた価値序列の体系化で、そこに私たちは泥まみれになりながら、それが綺麗なんだと思い込んで、私たちは勘違いに気づけません。

ヤスパースは、世界大戦について、これから私たちが人間であるために、哲学が最も重要となると述べていますが、今、そのような現実は、抑圧され、消されています。

科学の権威が落ちれば、科学的に作った食品や飲料、ITやさまざまなネットワーク、他の大半の製造物、さらには戦闘機や武器までが、否定される恐れにより、私たちは哲学を現前から消し去られているのです。

哲学は、誰をも頼ることなく、あなた自身で感じたことを省みて、自分でやるもので、それ以外は何もありません。

ヤスパースの哲学のエクリチュールは、その魂が文体として構成され、その間に見え隠れする文脈の際にある人間性や本質は、私たちに今一番必要なことです。

利益になるものを考える前に、そのシステム化は、ヤスパースが批判する考え方です。

哲学がどれだけ私たちを変え、私たちの足元を整えるのかは、哲学を実践した人にしか分かりません。

あなたが少しでも哲学的思惟を生み出せるために、私たちは対話編を継続するつもりです。

 

 

 

written by 萩原

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