分かりやすく生きるために必要な哲学。思考と数学の関係性を説く。

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分かりやすく生きるために必要な哲学。思考と数学の関係性を説く。

私たちが思考することが、正しいか間違っているのか、そこに目を奪われる悪夢から脱し、今は適切な情報と知識、そこからどこまでの世界を新しくでき、それを見ている人に伝えることができるのか、そこに今の私たちの壁がある。

私たちは、作業着とワッペン、刺繍をカスタマイズし、クリエイティブな作業着で仕事をして欲しいと強く欲しているベンワークウェアを経営する松本。そして、フリーでパーソナルトレーナーを実施し、一人一人の体を通じて、神経の内部を調整しようと挑戦する萩原。

この二人の命題はビジョンにおいて一致する。
そのビジョンとは、「生活する日常から生まれた哲学や文学を実践し提供する」
そもそも、二人の話は、膨大な哲学と文学の知識を有する話をする松本の滑らかで、素直で、こちらが問いかければ、すぐにそこで思いを凝らし、すぐに応えてくれるその姿に感動した萩原のやり取りからであった。

今では、こうして対話する実践を私たちが積んでいくことに意味の中心があったが、自分たちからも哲学や文学が欲動する感覚を自分たちで、確認できている。

この実践は、私たちの生物的なところから生まれているはずなので、これからもやり続けるだろう。
この二人で対話することで、自分たちで分かったため、今度は次なる欲動が私たちの高次なる大脳皮質という連合野に繋がった。

それが、どのような言葉を繋ぎ合わせ、どのような表現をするのか。人は今何を考えていて、何が知りたくて、どこまで高められるのか。ここに、大きな壁を作っている。私たちの挑戦なのである。

 

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tak:最近の松本さんは、仕事を全力でこなし、寝る間を惜しんで没頭されてますが、それをする松本さんの背中を押すように、執筆がしたいという気持ちが高まりつつありますよね。少ない時間の隙間に哲学書を読んでいるとも言ってましたが、どうしてそこまで執筆したいという気持ちが生まれるのですか?

matsumoto:何と言いますか、もう時間があまりないって感覚がすごくありまして、かねてからの執筆に対する思いはあったのですが、こうして具体的に哲学と文学の話を萩原さんとするようになってから、最近はとくに早くしなければなどと思う気持ちは高まりを抑制できないでいる感じがします。

tak:なるほど。松本さんとこうして実際に接していますので、お言葉にして頂いても、その中に込められてる気持ちは私の中で一致します。お仕事がかなり忙しくなってから、その状況は限られた時間の中でパフォーマンスできる時間の圧縮におそらく執筆の現実的なイメージを想像されてるからだろうと思います。

ところで、時間のない中で読まれてる哲学や、もしくは他のテーマがありましたら、どんなものであるのか教えて頂きたいです。

matsumoto:そうですね。執筆をするためには、文学の現実的な展開や方向性を知っておかなければならないなと考えています。そのために、現代小説の新書にも目を通すようにしています。

あとは、数学についてや科学の現実的な活動などについて調べていますね。

tak:松本さんは性格的なところなのか、本当に手間を惜しまず、これからの活動のために予期されるところを想像するのが、特異的なものをお持ちですね。

松本さんは、現代をよく知っているなと思います。現時点の世の中の運動を頻繁に調査されていますね。数学は松本さんがこれまでに度々命題に出されていますが、数学とはどのようなところを取り上げているのですか?

matsumoto:萩原さんも熟読されている*ドゥルーズやガタリは、私が複数の書物を読むと分かってくるのが、彼らは西洋人特有なのか、彼らがそのような特異性があったのか、数学的な分析から物事を見ているなと実感しました。
そこで、私に足りないのは、数学を知ることだなと思い直し、今は基礎の数学を考えることにしたんです。

(*ドゥルーズやガタリ:ドゥルーズはフランスの哲学者。彼は独自の哲学的な思索により現代を解き直した。ヒューム、スピノザ、ベルクソンなどの人が求める思惟より先に現れるシステムを哲学性で解読した先哲たちから影響を受ける。その独自の哲学に限界を感じているときに、フランスの精神科医フェニックスガタリと出会い、彼一人ではできなかった独創に違った導火線が作られ、哲学の根本的な人間を否定した上でもう一度人間を立て直すことを実現した)

wikipediaジル・ドゥルーズ

wikipediaフェニックス・ガタリ

tak:人は、強みがあれば弱みを隠すために、強みに偏っていく傾向があります。松本さんはいつも崖の際に敢えて立ってるという選択を自らされてます。やはり、執筆をしたいと考える人の特徴なのかもしれません。数学と哲学、文学との関係はどのように考えればいいのでしょうか?

matsumoto:なかなか難しいものですが、現代が科学という数式によって何もかもそうした単純な因果から導き出した情報の集まりです。インターネットはその最たるものでしょう。そうした状況に向き合わされている現代人に読まれるためには、この現実の構造を読み取らなければならないと考えました。
この考えは、ドゥルーズとガタリの書物を読み分かったことです。彼らは、一般の人はほとんど知らないで今日を生き、そこが日常となっています。彼らの書物を仮に宣伝を増やし、メディアに流してもそうは売れないでしょう。
彼らの哲学的概念は、過去のものというより、これからの未来を創出できる内容なのです。それを彼らは、私たちより先に生まれ、それを提案してくれています。しかし、哲学的な概念はこれからですが、哲学というカラーが現代が考えるイメージとは違っているので、伝わらないんです。
それを実現させるために、私は文学にして、彼らの哲学を私の中に入れ、それを更新させて伝えたいなと思っています。

tak:素晴らしいですね。おそらく哲学が好きな人はまだ少数ですがいるとは思いますが、哲学をしていることに楽しんでるところで止まっているはずです。松本さんが度々述べているように、「人間は何かを伝えなければならない」というお言葉に繋がってきますよね。
では、その数学というのは、どのように見ていっているのでしょうか?

matsumoto:トロポジーという数学です。日本語でいうと幾何学(きかがく)と言います。現代学校教育では、進学によって科目を分けますので幾何学を具体的に習ってないこともあります。ただ、私も今になって調べてみて知った数学ですので、学術的の見方ではありません。

tak:松本さん、その意味を私は非常によく分かります。私たちにビジョンとこれは合致していますよね。日常的なところから生まれた知的欲求がこれからの哲学ですから。

matsumoto:この幾何学というのは、ざっくりいうと形に対する公式となるのです。ある正方形があるとしたら、その形とは何かを数字を並べてる、それを世界すべての人に応用できるように数式にしたことを幾何学と言います。
この幾何学は最古の学問ではないかと考えられています。すなわち、人類であった頃から数学をしていたのではないかという見方があり、クロマニヨン人やネアンデルタール人も数を扱ったのではないかとしており、アルタミラやラスコーの洞窟壁画を見ても西洋人の学問的な学者たちは、それらも幾何学で捉えようとしています。

 


images-3                           (ラスコーの壁画。すでにこのような画が残っている。これを見て何を考えるのかが大切)

matsumoto:この幾何学というものを数学として私たち現代人は使っているわけではありません。数学を理解したこととして日常を過ごしています。私たちが挑戦したいと考えている哲学が現代のこのフィールドであり、マーケット(市場)に浸透できないのは、数学を理解しないで数学を理解したようにして数学を使ってしまっているからなんです。

tak:松本さん、素晴らしい提案ですね。この話を、どこか有名な国立大の教授がいうとなると、また今までと同じ世の中に戻っていくでしょう。松本さんのような、実社会でお仕事としてビジネスをされている人が丁寧に学問的に調べ上げ、それを発信することに大きな意味と価値があります。
松本さんは、数学を批判するために、数学を調べ上げているのですよね。ドゥルーズが行なってきた経験と全く同じ選択を松本さんはされています。
私は、ドゥルーズが生き返ったのではないかと思うぐらい、心が刺激的に快刺激が興奮しております。

matsumoto:ありがとうございます。
幾何学という言葉は日本語ですが、原文には幾何学は古代ギリシャから生まれていました。紀元前300頃、ギリシアのユーグリットという人物が名付けました。幾何学の定義としては、図形や空間の研究をする学問とされています。

tak:ということは、古代ギリシャから図形や空間の感覚や見方があったのですね。むしろ、現代の方が簡単にできるソフトやアプリに変わっていってますので、古代ギリシャの頃の方が、空間感覚は優れていたのかもしれませんよね。

matsumoto:そうなんです。前述したドゥルーズやガタリは、そうした数学の歴史や数学から導いた哲学も現実を解体する方法による見方をしていますので、私たちも数学を、少しだとしても知っておかなければ、彼らの哲学を分かったとするのは、不完全であります。私が数学を考えるのはそのためなんです。
幾何学の話ですが、数学をギリシア語ではマテーマタといい、マテーマタとは、「学ばれるべきもの」という意味があったそうです。幾何学は、ギリシア語で「ジオメトリー」と言って「ジオ」は大地を意味し、「メトリー」は計測という意味になります。哲学の発祥は、西洋であり、古代ギリシャであるために、この幾何学の学問は知っていかなければならないのです。
当時は、この幾何学を教養の中心としていました。また物事をきちんと合理的に判断する基礎として、すべての人が学ぶべき知識だという認識で通っていました。

tak:私たちはとても手軽に日本語訳された哲学書を書店で見つけ、手に入れることができます。日本語ですから、そのままの通常の思考回路で読んでしまいます。
そうすると日本人が見ている物事の見方に日本語の機能がその回路にしていくでしょう。それでは、何も変わらない世界のままで、何も壊せずに、何も更新されることなく、彼らの哲学を読んだとしても、新しい概念には創出できなくなります。
松本さんが数学に目を向けることは、哲学を学ばれたことでぶつかられた壁にあるのは、西洋と東洋、その中の日本と言う国土の狭い領土に住んでいる要素も見えてきますね。

matsumoto:哲学をこれからは哲学と呼んではいけないのです。哲学と聞いただけで、何やら非常に困難な想定や壮大で、超越した神秘的な世界を外部に作っていきます。だから、新しい表現が哲学には必要です。そのために、西洋で生まれた哲学を知るために、数学を知り、その入り口には幾何学があったという感じです。

tak:松本さんは知的ですが、感覚的な要素もお持ちで、彼らは哲学的概念を立てることを高次な感覚の使い方と言っているように、松本さんもその部分は共通しています。執筆をしたくなる人の精神性とはこうした思考の回転が無意識に生まれる運動を持っている人なのでしょうね。

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matsumoto:ありがとうございます。
幾何学は、プラトンが立てたアガデメイヤという学校では「幾何学を知らざる者、この門に入るのを許さず」という言葉が書いてありました。
それぐらい、幾何学は物事を見て、理解するためには、教養として基本知識として考えられていたようです。
数学の主題は、「モノとコト」がテーマです。その眼前にあるのが、形とは何かという提議となるのです。

 

tak:幾何学はそこまで私たちの生活の一部になっていますか?私はそれほど思ったことはないのですが。

 

matsumoto:今、萩原さんが疑問に思った問いがまさに私たちに最重要な問いになります。そう思うのが、この幾何学について話をする意味となっていると思われます。
ここで、幾何学について、もう少し深層に目を向けて見たいと思いますが、数学は数字の足し算や掛け算であって、そこに必ず計算が発生し、答えを作り出していくのが数学の目的です。
幾何学は、計算する数式を作り出す根源となっていまして、インターネットで活躍しているGPS(位置を衛星から電波で測り知る装置)も数学か幾何学が基本で考えられています。

 

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この図に、一本のひもがあります。このひもは丸めてみたり、伸ばしてみたり、形を自由に変えられます。
三角にすることも可能ですが、このひもの端と端をひっつけなければ、三角形にはなりません。
角ばらせなくても、円にでもできます。このひもの長さの範囲の中では自由に変えるということが分かっています。

このひもは、いくら形を変えても形とはならないのです。形とするならば、数学では現わすには、このひもに関しては長さとしてしか現わせません。

形として現わすなら、他のひもを考えてみたいと思います。ひもに近いひもというものでは、輪ゴムです。

 

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先ほど図に見せましたのは、端が繋がっていませんでしたので、輪ゴムのように形にはなっていませんでした。
輪ゴムは、ふつうに机の上に置けば、円の形になります。
今度も、ひもと同じように、輪ゴムをいろいろと変形することができます。

このひもと輪ゴムの違い、これが幾何学から発展した形の新しい性質で、基本は古代ギリシアで生まれた幾何学が発展して、今のデザインになっていることが、数学であるのですね。

 

tak:お話を聞いていますと、数学は目に見えるものを形にするために数字を使っているんですね。三角形だと、面積を出す公式が学校で習いましたが、数学はこの目に見えるものを空間と捉え、数学で答えを導く帰結が哲学で応用されているのかなと考えてましたが、それで良いのでしょうか?

 

matsumoto:そうです。私たちの対話では、ドゥルーズの哲学を引用する機会が多いですが、ドゥルーズは数学の素数まで解き明かしてる18世紀の哲学者ライプニッツを核心に近づけるまで調べ上げています。

哲学は数学であるとドゥルーズは言いながらも、またそれを脱構築し、哲学は哲学であろうとしていきます。
古代ギリシアが原点である哲学はそこから継承され、肉付きを増やしながら、ドゥルーズの時代に伝わっていたため、ある意味で完成させた形になっていたのだと考えます。19世紀以降の哲学者たちは、伝わってきた哲学に内在する運動が何であるのかに関心を向けました。ニーチェなんかは、ある程度の脱構築まで復権できましたが、キリスト教を批判し、神は不在であるところまで説けたのですが、それ以上乗り越えることはできなかったのです。

 

tak:松本さんが数学に着目するのは、自身に降りかかってきた事物のなかで、それを当たり前だと思わなかったのでしょうね。
例えば、学生時代に学校で数学を習っていても、ふつうはそのまま受け入れて為されるがままに学校の制度に身を預けるのか、それか授業を受けることに反抗してまったく授業を聞かずに、嫌いな意識のままに帰結させることがあるなかで、松本さんは違っていたんでしょうね。

ニーチェはそれまでの哲学者たちよりも適切な脱構築をしたと思われますが、現代に通じるものではありません。
ドゥルーズはそれを乗り越えてきてますから、私たちのような現代でいわゆる資本主義におけるマーケットでのさまざまな障壁にぶつかって、自分と闘う状況にも適応できるのが、ドゥルーズの脱構築の凄さですね。
松本さんはドゥルーズと同じ目線をお持ちなので、いつも感嘆させられています。

 

matsumoto:ありがとうございます。幾何学は数学の原点であるということで、プラトンの学問は幾何学を知れなければ、門をくぐらせてくれなかったことが分かりました。
プラトンといえば、ソクラテスの哲学を修辞学にして、弟子を作り、広めていき、19世紀までほぼそのままの形でプラトンの哲学が生き残ったと言えるのです。

そこに生まれるスタイルというのが、形なのです。
形というのはは幾何学で現わしていて、プラトンは幾何学的で修辞学的な方法によって哲学を行なえたから、2300年以上(プラトンは紀元前400年ぐらいに生存)残ったのだとすると、ドゥルーズの哲学を追って見ても、数学の力はそれだけの影響力があるということです。

その力は、哲学から宗教へと。そこから科学へと関連付けられ、私たちの今のネット社会になり、便利な反面、戦争への危険性が思考の中にまだ省みることなく出てきてしまうのは、ドゥルーズの哲学を私たちが実践する必要が早急に求められてるのではと私は考えざるを得ないですね。

 

tak:松本さん、よく分かります。私たちが無意識に使っているインターネットはプログラムで構成されてますから、数字と記号の羅列で出力されています。
これも、数学ですよね。ただ、問題なのは、プログラムは専門的な領域に留まされていて、インターネットを使っている一般人には分かりにくく、理解できません。
プログラムの知識がなければ分からないため、専門家が介入したら自由に操作され、それがどうなっているのか、分からずして発信されたコンテンツを疑いを持たずに見てしまいます。

もし、私たちがドゥルーズの哲学を知り、哲学を各個人が分かっていたなら、科学は専門知識がいりますが、哲学なら生命が神経回路に繋がっていたら、身分、年齢、立場に関わらず、考えていけるようになりますよね。

 

matsumoto:本当にその通りで、たまたま偶然にも、今まで生きていて、なんらかの不遇の状況に立たされ、苦しみを抱え、哲学に出会っている人がいるなら、おそらくマスメディアや書店で扱ってるのは、古代ギリシア発祥のプラトン系の哲学です。
私たちがテキストにしているドゥルーズやガタリ、デリダ、バルトなどは、一生かかっても出会えない哲学者です。

それが東洋思想に入った人なら、老荘思想のような孔子の系統の書物を読んでいることになります。
これらも、道徳観念が中心ですので、ドゥルーズのように核心に迫る哲学でなく、人間を規定された哲学性になるため、いくら入り込んでも、人間を生物的な機械性まで及びません。

今挙げた哲学に内在されているのが、幾何学的な形を数式化するという公式で構成されているのです。

 

tak:なるほど。数式化することは、インターネットが現代に目まぐるしく普及したように、世界に広めるための構造があるのですね。
私たちが何かを流行らせるには、数式化と修辞学を駆使すれば、それをインターネットに乗せれば、爆発的な作用を生むのかもしれません。

それでは、伝わったといえるでしょうか?本当にそれは疑問だらけです。
松本さんが学生のとき、授業で数学を習ってそこに疑問を持ったのは、松本さんが生の力があったおかげです。
それまでに、人間的な規定された形を持ってしまっていたなら、数学を習っても、そこに同期する以外選択は生まれないのだと感じます。

この現代で、ネットの威力に吸収されている人たちは人間の自己規定と数式化が内部で進んでしまっているからなんでしょう。

 

matsumoto:そうです。ここで、もう少し、幾何学の話をしてみます。形を数式化するのが幾何学ですが、18世紀半ば近く、プロセイン・ケーニヒスベルクの街がありました。

 

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上記の地図が、ケーニヒスベルクの一部を抜粋したものですが、ここには7つの橋が架かっていました。この街の中に流れていたのがプレーゲル川という大きな川が流れています。
ちょうど、この7つの橋を一回だけ渡って元に戻ってくる散歩コースは存在するのかどうか。それを考えたのが、哲学者のカントだったと言われています。

実は、この7つの橋をちょうど一回だけ渡って戻ってくるのはできないようです。こうして、ある限定された経路を考えていくのは、幾何学なのです。前述したトポロジーという位置解析という数学になります。

どうして、この橋が一回で渡れないのか。それを思うだけでは根拠がありません。それを他者に伝えることはできません。これが数学という学問性なのです。

 

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tak:どうでもいいような事象をとりあげていくところには、人間の思考への挑戦を数学の学問はしてきたんですね。
それが、今の社会を作った事実も忘れてはいけませんよね。
数学が発展してきた時間を考慮すると、何百世紀もかかっていますので、それを解き明かしてるいくには、私たちに限られた時間はあと少ししかありません。

となると、限られた時間、いわゆる有限の運動による潜在的な思考を残された時間で数学の本質を一般大衆である私たちが行なうことに価値があります。
有限さを保持するためにも、ドゥルーズの哲学を活かしながら、私たちができる哲学を行なっていくのが適切な実践なんだと思われますね。

 

matsumoto:本当にそうですね。
ケーニヒスベルクの街の橋の命題を説くために、誰もが納得できるようにしなければ、そこの本質を説いたことになりません。
そこで使われたのが、証明という日常的推論ではなく、数学のなかで説けないことを理論にして説明する作業となります。

ケーニヒスベルクのこの街ですべての橋を一度で渡れないのはなぜなのかを説明することで、すべての人たちに説得できようになると考えるのも数学的になります。
この証明という方法論を持つことで数学は学問として成立してことにしています。

そして、このケーニヒスベルクの題材は、何を証明すれば良いのでしょうか?
そこにあるのは、橋と橋との『つながり方』という見方にあります。

 

tak:ここで、つながり方というのは、哲学的な観点、思索に関連するように思います。
哲学はなんらかの事象を言葉で説明するため、数学ではなく国語の分野だと解釈しています。
これも哲学を学校教育のカテゴリーの一種にさせられたことで、哲学が私たちが考える非日常として、認識していったのでしょう。
数学的にプラトンからついこの間まで継承された哲学はそうさせられてましたから。一度、私たちは哲学を言葉で解釈する見方を離れ、数学的に見る方向がいりますね。
そのために、ドゥルーズが実践した過去の哲学の運動してきたその回転にそっくりそのまま合わせていき、同じ哲学に自分の思考の運動を合わせるのが、必要であるとするように、数学的に哲学を捉えていく実践が私たちに必要です。

 

matsumoto:この幾何学を私たちは学生時代に少し習ったぐらいで哲学に置き換えてきたのではありませんから、このフォーマットで行なえたら適切な哲学なっていけると期待できますね。

この7つの橋の命題を考える上で重要なのは、歩く距離、橋の長さ、その橋が木造りなのか、石造りなのか、道が直線なのかは関係ないとしていくのです。これらをなしとすることを、必要条件といいます。
これをドゥルーズはライプニッツの数学を考えたときに、証明における必要条件を重要視し、脱構築するために必要条件を省いた状態にして、その物事の本質的な構造を見るようにしていたようです。

この橋を必要条件に絞ったなら、思い切ってすべてを簡略化、抽象化して、岸や島を一つの点で、橋を点と点を結ぶ線で表現してみます。

 

tak:なるほど。前提に命題があって、そこに帰結が生まれ、それを証明するために必要条件に絞るのですね。古代ギリシャから19世紀まで継承された形而上学が基礎をなすアプリオリ的な哲学も同じ原理ですね。

 

matsumoto:そうなんです。19世紀までの哲学者、デカルト、カント、ヘーゲルなどは、いつもこの数学的に物事を対象とし、人間から客観にすることで、人間の思考は無限になった錯角で哲学を完結させていたように、そこには数学的な基本があったとされています。
よって、ドゥルーズはそのような哲学を、ライプニッツの基礎数学に寄り添い、哲学に内在されてきた形而上学を解き解そうとしたのです。

幾何学のトロポジーは、今の橋の問題が定義となりますが、岸や島を必要条件にすると、点と点で現わすことができます。この点をグラフといいます。言い換えると、網目とも言ったりします。

 

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このように、点でこの橋の問題を考えていくと、すべてのは橋を一度で通れるのかどうかは、次の言葉で置き換えることができます。

それは、「一筆書きができるかどうか」という表現になり、数学的命題では、「このグラフの辺をちょうど一度だけ通過するようなひとつながりの道があるだろうか」と言い換えることができます。
一筆書きとは、点と線でできたある図形を、鉛筆を紙から離さずにひとつながりの図形として書くことができるだろうか、となります。

このような問題は18世紀の数学者の間に広がり、研究され、その代表的な数学者ではオイラーという数学者がこの一筆書きのパズルにはトロポジーの源流があるとして面白い数理が潜んでいると見つけたのです。

数学者オイラー wikipedia

 

tak:まだまだ私には分からない話です。どうしても、学生時代の数学のイメージの痕跡が記憶にあるなと実感します。この一筆書きがどうやって数学の数理になっていくのでしょうか?

 

matsumoto:この話は分からなくていいんです。ドゥルーズも多くの哲学や数学を調べたようですが、決して理解するために行う調査ではなく、その数学が生まれている背景を見るために、一つずつ内在平面に置いてみると言っています。だから、テストで答えるためにこの数学を知るわけではありません。

 

tak:ますます、学校の勉強に疑問を持ってしまいますね。松本さんは学生時代から今私が抱いたような疑問を持っていたというのが驚くばかりです。私は、あの頃テストで良い点数を取ることに必死でした。
松本さんのように物事を見れたなら、もっと興味深い学生時代になったのだろうなって思います。

 

matsumoto:誰もがそのような状況で学生時代を送ってきましたよね。やはり、その結果が今の息詰まる資本主義の壊れた要素となっているのですから、今からでも哲学を再起動させ、世の中を見直していうことに大きな価値があると私は思っています。

このトロポジーですが、18世紀にオイラー氏が「一筆書きのパズル」として数理まで構築しました。
オイラー氏は、一筆書きできるには、この点の位置や数になんらかの法則があるとして、それを調べました。これが図形の原点となります。そして、一筆書きできるためにはある条件があるとして、それを必要条件とし、それに満たされないものは、一筆書きできない図形であるとしたのです。

これが証明という数式と、必要条件という条件付けによる新しい数学というものを生み出したのです。

 

tak:時代的段階では、このオイラー氏の後にドイツの哲学者ヘーゲルが生まれてますので、ヘーゲルが立ち上げたプラトンに習った弁証法はそうした数学の発展からくる流れもあるのかなと思いました。
18世紀以降は、数学の広がりが、より証明や計算などによる合理的に物事を捉えていくことが哲学にも影響を与えているのでしょうね。

 

matsumoto:その通りですね。西洋というのは、地理的な要素から時代の影響を関連しあうところがありますので、ドゥルーズが過去に作られた哲学や数学を前述しましたが、ドゥルーズが概念を垂直に立たせるための内在平面にとりあえず置いてみて、そこを眺め、最後は潜ってみるという実践がよく分かってきますね。

一筆書きについてですが、ケーニスベルクの7つの橋は一筆書きで書くことはできませんでした。必要条件として決めたことは、始点と終点は同じであるとしました。
ある点から出発して、そこに戻ってくる散歩コースです。
カントは毎日同じ時間に同じコースを歩いたとされますが、それがこのケーニスベルクの7つの橋だったことも興味深いですが、そこに性質が見えてくるんです。

どういう条件なら、一筆書きができる点であるのだろうかという見方です。
この散歩コースの方向が変わるところまでの線を辺と言いますが、その点は始点でも終点でもない点です。そこは通過するための点となります。すると、その点はある方向からくる辺と出ていく向かっていく辺が現れます。

したがって、通過する点には二つの辺が必ずあることが分かり、これが条件となって定められるのです。
まとめますと、通過点は必ず二つの辺が必ずあり、二つということは、それは偶数になるという条件が出来上がります。

 

tak:おっ、少し私の中で、今少し見えたことがあります。
ヘーゲルの哲学は弁証法を用いていますが、二つの対立軸を作り、対象を二つ立たせ、そこで弁証をし合っていき、ヘーゲルがいうには、そこから新しくなって、その状態をアウフヘーベン(止揚、しと)し、それはどういう状態であるかというと、もともと立てた二つの軸は消えてなくなり、新しい軸である論理ができると考えました。

このオイラー氏から発展した一筆書きである証明という数学は、ヘーゲルにも影響を与えている可能性がありますよね。そうすると、こうして数学を調べていくことは、ヘーゲルがどう考えたのかにも、近づいていけるでしょうし、ヘーゲル以前の哲学の論理も分かったり、ドゥルーズがそれらを批判し、新しく哲学を立ち上げたことへの理解にもつながっていく気がします。

 

ヘーゲル、マルクス弁証法 wikipedia

 

matsumoto:そうですね。こうしてひたすらに、単純に事実を探し、追いかけ、追いつき、そこを眺め、感情を介入せず、事実を出来事として見て見るという実践的な見方は、ドゥルーズがずっと生涯やってきた哲学でした。
今、萩原さんがそう考えたように、哲学というのは、それぞれが垂直方向に立たせた、自らが積極的に実践していく運動なんです。その哲学は歴史的な事実で終わっているから、事実を覆そうとする間違った論理になってしまうのですね。それが今の日本や韓国、アメリカとの関係に当てはまっています。

話を戻しますと、一筆書きできる図形には、必ず二つの辺があると必要条件が分かりました。今のところそれを否定できる論理は見つかりませんので、必要条件が絶対条件に変わっていきます。
一筆書きできるには、始点と終点も同じところに戻るわけですから、始点と終点も二つの辺がなければ、一筆書きにはならないことになるのです。

一筆書きのためには、すべての点において、偶数でなければならないことが分かりました。

 

「出発点に戻ってくる一筆書きが可能なグラフなら、すべての頂点は偶数である」

これは、必要条件となります。その理由は、始点と終点を同じにしているため、まだ絶対条件を証明できたのではありません。
今度は、一筆書きが成り立つために、始点と終点が違ってもいいとするなら、どうなるでしょうか?

先ほどの地図(図形)は偶数でできた点(数学では偶頂点といい、奇数の点を奇頂点といいます)以外に奇数の辺が4つもあったため、必要条件として先ほど出来上がった「一筆書きにはすべての点が偶数であること」を満たしていない図形となります。よって、このケーニスベルクの橋はすべての橋を通って、最初の場所に帰ることはできないということに証明されました。

今言いました、始点と終点が一致しなくていいとなれば、どうなっていくのでしょうか?
始点はそのまま向かっていくだけなので、一つの辺となり、奇数となります。同じことが、終点にも当てはまります。終点はそこで終わる点であるため、奇数となります。

すると、始点と終点が違ってもいいという一筆書きには、次のような証明が立てることができます。

 

「グラフが一筆書きできるなら、すべてが偶頂点か、または、奇頂点がちょうど2つだけある。その2つの奇頂点は出発点と終点でなければならない。」

 

今考えたことは、先に定義を作るという必要条件から入っています。
「一筆書きができるとしたらどういう性質をもっていなければならないか(これが必要条件となります)」そこから、もう一つの見方がこの一筆書きには出てきます。それは、「逆にそのようなグラフを持っているなら、必ず一筆書きできるだろうか」ということを問題にすることができるのです。

これを、十分条件と呼んでいます。この十分条件が見つかって初めて証明されたということになるのです。

 

tak:なるほど。哲学の展開とまったく同じですね。それを松本さんのお話でそれが分かったのと共に、それだけ哲学は証明や弁証法という古代ギリシャでできた数理が内在していることも分かりました。そして、その伝承をドゥルーズは壊していき、ヘーゲルが弁証法で使った否定性が哲学ではなく、あくまでも肯定性を自ら立ち上げるものが本質的で潜在的な哲学であると言っていることも見えてきました。

松本さんが考えてる哲学は世の中の見方が否定性ではなく肯定性であって、肯定性で松本さんは哲学をされていることから、世界平和というどこにも属さない一つの軸のある概念になるのだなと感じました。ヘーゲルのように弁証法を数理で捉えたなら、それぞれが否定性のエネルギーは自己を否定することになり、そのエネルギーは内部で使えない状態に化していき、抑圧が他者へ向かっていく構図になるのではないでしょうか。

否定性を抱えたデモなんかは、世界平和とは誰も思わず、反対側(対照命題、アンチ)に向かエネルギーとなり、それが結局は争いとなり、テロだったり、戦争に変わっていくのは、やはり哲学が数理になってしまったところから、私たちの生にまで及んでしまっているのだと思います。

 

matsumoto:ドゥルーズが哲学する条件にも、数理は使われていますが、内在平面に立たせているだけで、決してそれを他者を責めるためや、自分を擁護するために使っていません。
だからといって、数理を否定はしていないですし、デカルトやカント、ヘーゲルも存在させたままで、一から哲学を考えて直しています。

先ほどの一筆書きの図形の証明ですが、始点と終点を同じにすると、すべての点が偶数になることは、必要条件として証明できました。
その逆である十分条件は、必要条件よりも難しく、これを証明しなければ、数理として証明されたことにはなりませんから、数学という学問で四苦八苦するのは、十分条件であるのです。

十分条件の証明は、個別の性質ではなく、一般的な性質を考えなければならないのです。
十分条件のためにたどっていく順序としまして、任意の頂点を1つ選び、そこから出る辺を自由に選びます。そして行けなくなるまで続けて辺をたどっていきます。辺は決まっていますから、いつかは行きづまるのですが、それはどの頂点でしょうか。

必要条件はすべての頂点は偶頂点でしたから、すべて偶数になるはずですので、必ず入ったら出ることができるのです。そうすると、それができない点はあるのかどうかを見つける必要が出てきます。

それはどのような点であるのでしょうか?
その回答は、出発点です。出発点だけは、最初に1本の辺を消費しているのでいつかは通過することができなくなります。
したがってこのような一筆書きの散歩の道は必ず出発点に戻って終わります。

 

tak:私たちがいつも通っている道が見方によって、数学という学問になることは、とても身近に思考の運動は手を伸ばさなくてもすぐに手に入る距離にあるものなんですね。
私たちは、この対話によって真の哲学とは何かに着目してきました。こうして、証明について数学的に見ていますが、これが単なる学生時代を懐かしく思って、形式を重んじる数学に回帰するのなら私たちの目的とは違ってきます。

私たちがやりたい見方とは、ドゥルーズの哲学的介入を見習って、数学を私たちの目の前に立たせて見ることですからね。
こうした、証明は学生の頃に聞いているはずですが、私はほとんど覚えていませんが、それでも数学という形式は、私たちが生きる現代を全体を一つにする論理に貢献(支配)しているものなのですよね?

 

matsumoto:そうです。現代を生きていると、ネットやテレビのマスメディアから発信されるおびただしい数の情報はすべて単純な証明からできています。
難しく考えさせるようにして、マスメディアの構造はかなり単純にできています。だから私たちは分からないまま、流れてくる情報を信じています。

例えば、ある連続ドラマが視聴率がいいと聞いたなら、自然に必要条件が立てられます。
「日本人はみんな同じ価値観だから、みんな見るものは人気があって、日本人に合うに違いない」となるでしょう。
十分条件では、このドラマは本当に日本人みんなが見ているのだろうか、例外はないだろうか、の問いには、テレビはどの家庭にもあるし、ネットはスマホでみんな見ているだろうし、それは私の周りの人はほとんどの人がスマホを持っているし、といった十分条件はすぐに満たされ、完了されていきます。

これはとても恐ろしいことなんです。しかし、証明がどうだからという今回の記事のような話をしても、誰も聞いてくれません。
それは、数学は媒体を通して形が変わっているからです。私たちは数学を考えて現実的に思考をしているのではありません。

これは絶対条件になりますが、哲学にまで次元を大地に近づけなければ、見える可能性はありません。
だから、ドゥルーズを見習い、現実を解体していく作業が脱構築と言われ、ドゥルーズをはじめ、19世紀以降の哲学者たち、その代表的なのがデリダ、バルト、マルクスなどが挑戦してきました。

 

tak:そうやって、数学は内部に潜り込むようにして、まるで湿った土の内部にいる小さな生物のように生息しているのですね。
しかも、数学という公式をキリスト教を広める目的と同じ構造がまだマスメディアにあることは恐ろしいです。松本さんが哲学をお若い頃から、目覚められ実践されている重要性を私は、こうして何度も対話を繰り返しさせて頂いたことで分かってきました。

私自身が、松本さんのお陰で西洋の知識が増え、そうなると少しづつ脱構築が私たちなりにできてきました。すると、不思議な感覚が私が今まで思ったり、考えたりした思考が断片化していくのです。この感覚は本当に不思議で、快楽に近いような何とも言えない感覚で、これって哲学をしなければ体感できない感覚なんだろうなと思います。

昔の自分とは違っていて、すべてを統合させようとしていた思考のパターンが見つかりました。なぜでしょうか。誰かに言われた記憶はないのに、自分が思ったことは自分であるとまとめようとしてきたんだなと思えたのです。

ひょっとすると、この対話で反復してきた哲学によって脱構築され、私の無垢なる大地に垂直座標軸に今まで思ってきた記憶が最初は集合体として固定していたものが、松本さんの適切な哲学のお話によって私の内部構造(神経のプログラム)は断片化されたんです。

この感覚は確実に快刺激です。ドゥルーズが言っている、デカルト、カント、ヘーゲル、そしてニーチェが実践した形而上学を保持したままの否定性の哲学とは違って、内在平面に立たされた垂直にそびえ立つ肯定性なんだなと思えました。

 

matsumoto:こうして私も萩原さんも見えていない、生物的な真のガタリ氏が言っている器官なき身体に近づけることができたなら、私たちが求めている世界平和はそれほど難しくないところにあるように思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

written by ven

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