難波座裏「ピエーノ別館」にて

VEN WORK MAGAZINE / GOURMET

難波座裏「ピエーノ別館」にて

私たちが見えている景色は、実は私たちが見えていない景色となっている。

見えている景色はただ目の前にあるだけで、感覚として知覚されてるわけではないので、私たちは景色をちゃんと見ているわけではない。

 

その景色が、そんな景色だったんだと思うためには、少し見方を変えるという差異が必要となる。

いつもと少しだけ見る方向をズラせば、いつも景色がそう見えていたんだと初めて分かる。

 

私たちはこの対話シリーズをできるだけ毎週やろうと決意した。

そうしなければ、私たちがやってることが本当にできているのかどうか分からない。

対話によって、問いかけを繰り返し、思考に終わりなく、差異を生み出すために、私たちは気づきが自然発生できるように、精一杯の問いかけを繰り返していく。

 

matsumoto:ベンワークウェア経営者松本

tak:フリーパーソナルトレーナー萩原

 

tak:私は、最近猛スピードで古書を探し求め、人間の起源、人間の民族性、松本さんに教えて頂いた文化人類学などを集め、熟読することを実践しています。

今回は、時事問題を完全に取り払ってみて、人間の本質について話を聞かせて頂きたいなと思っています。

松本さんは、作家になると宣言しましたが、改めてどのような作品にしたいなと考えていますか?

 

matsumoto:そうですね。若い方に人間と自分とを向き合って頂けるような内容にしたいなと考えています。

何より、現代に合った文体で、未来が想像できるような作品ができたらいいですね。

 

tak:松本さんは、事務所だったところを書斎として活用されてますが、今だとmacを使って打ち込まれてますが、表現しているとき、松本さん自身の心はどんな状態になっているのでしょうか?

 

matsumoto:もう、主人公になりきってる感覚です。私自身が経験したことを、主人公に少しエッセンスを入れ、心が動くままに、キーボードに手が無意識に動いていく感じでやってます。

 

tak:松本さんが作家宣言したお陰で、私も静かに作家になりたいなって思うようになりました。

生まれて初めて、作家になることなど、私は考えたこともなかったので、人間の思考というのは、松本さんの斬新な考え方と常に新しい情報を学ばれている姿を見て、私の人生観が様変わりしました。

この対話シリーズで、たまたま見て頂いた方がそうなるのなら、素晴らしいことだなと思います。

ところで、私は西洋哲学の原点に戻ろうと思い、バタイユの書物を読んで、バタイユを調べています。

バタイユの書物で、「文学と悪」というものがあります。

松本さんはご存知だと思いますが、その中で、作家とはという問いかけをバタイユ自身がやり、それを説いて、定義付けている表現があります。

 

「以下の研究は、文学の意味を掘り出すために私が続けた努力に対応するものである・・

文学とは本質的なものか、さもなければ何ものでもない。

私が思うには、文学によって表現される<悪>ー<悪>の際立ったー形態ーは、私たちにとって至高の価値を持つのだ。ただし、こうした考え方は、道徳の不在ではなく、「超道徳」を要請しているのだ。」

とあります。

松本さんは、このバタイユの表現を読んで、作家と文学についてどう感じますか?

 

matsumoto:バタイユはさすが深いですね。私は、ただうなずくばかりになってしまいます。

この「文学と悪」は少しだけ見たことがありますが、バタイユは文学について、本当に真剣に、見つめ直し、それを立て直して、乗り越えた文学者です。

バタイユは、悪を孤独に自分を置くと言っていると思いますが、それが人間として至高性を付けたのがバタイユ独自の表現です。

私は、バタイユの表現をこうして聞きますと、私たち日本人の民族性や歴史、現在の日常に当てはめることが必要だなと思いますね。

tak:なるほど。松本さんに問いかけると、何でも説き返されますね。悔しい限りです(笑)

そうやって、また私は松本さんを越えようとエネルギーが爆発するんです。

まだまだ私なりに調べ尽くそうと思っています。

バタイユがこのような思考になったのも、背景にはナチスドイツがありますよね?

 

matsumoto:ユダヤ人を容赦無く拉致し、迫害するという人間の善の最終地点でした。

ギリシア後で、ナチスドイツがユダヤ人を大量殺害を決行したのを称して、ホロコーストと言います。天災や大破壊、全滅を意味する言葉ですが、ホロコーストが行なわれた後に出されたのがバタイユのこの書物です。

やはり、日本人にバタイユの表現を使っても、ユダヤ人がナチスドイツに600万人殺された現実はなかなか想像できません。

 

tak:今聞いてて思ったのですが、日本人も広島と長崎に原子爆弾をアメリカに投下されましたが、ホロコーストの体験は日本人にもあるのではないでしょうか?

 

matsumoto:確かに、広島と長崎の原子爆弾投下によってたくさんの人が亡くなりましたが、戦争の中での大惨事となってますので、ナチスドイツのホロコーストは、ユダヤ人という特定の民族差別によって、600万人近く迫害されていますので、尋常ではありません。

 

tak:私たち日本人にとって、原子爆弾投下は最重要な問題ですが、戦後日本を統治したアメリカに憧れを持った私たちがいますので、日本人の民族性を捉えてなければ、人間の本質を説いた表現でも伝わらないかもしれませんよね。

 

matsumoto:そうですね。バタイユは人間が意味もなく、ユダヤ人というだけで、殺せるもんなんだと、それまでの人間は善である形而上学(けいじじょうがく)が崩されたんです。

ソクラテス以来、ずっと人間は道徳観を超自然的に持ち、善なんだと思っていた価値観が崩されたのはとても大きいでしょうね。

 

tak:先ほどのバタイユの表現の中で、悪の際立った形態が至高の価値を持つとは、どういう意味なんでしょうか?

 

matsumoto:おそらく、人間は全体主義に近づくことで、ある意味救われると考えていたのに、全体主義はナチスという反ユダヤ人思想を強めた結果になりました。

それまで全体主義になることが国家としての強みと考えていたのが、それがホロコーストになってしまったんです。

このバタイユの表現の悪は、そうした全体主義から完全に離れる立場に自分の身を置き、そこから表現するのが文学であり、それまでの全体主義が善に対立するのが、ここではバタイユは悪と呼んでいます。

 

tak:悪というのは、キリスト教からもきているのでしょうか?

悪と聞いて、私たち日本人はピンとこないかもしれないですね。

アメリカが原子爆弾投下してあれだけ死者を出したのに、マスメディアの誘導もありますが、アメリカを悪と捉えていないように思います。

そうなると、バタイユはキリスト教についても全体主義が善で、それに対する悪というニュアンスで書いているのではないですか?

 

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matsumoto:おそらく、バタイユはナチスドイツの背景にキリスト教をおいているはずです。

根本的な全体主義は、キリスト教とユダヤ人の関係からきています。

現在のキリスト教の聖書は、旧約聖書と新約聖書の両書を採用していますが、旧約聖書はユダヤ教のものをそのまま使っていますし、新約聖書はイエスキリストが言った言葉を、その弟子がまとめています。

tak:えっ。一つの宗教なのに、二つの違う宗教の聖書が使われてるということは、争いが根本的に生まれそうですね。

 

matsumoto:はい。新約聖書はキリストが絶対ですので、潜在的にユダヤ人に対する敵対と侮辱、差別があるのです。

それが、長い年月蓄積され、全体主義の力が超越して、帝国主義に到達したときに、キリスト教とユダヤ人の敵対が制御不能になったのだと思います。

tak:潜在的にあった他者への感情は、内在してるうちは、感覚的にそうあるなと感じる程度だったのが、ホロコーストがあって、潜在性が爆発すると、人間は生から死に簡単に持っていける現実を目の当たりにすると、私たちは自分たちが恐ろしくなると共に、生命の倫理観について、深く考えてしまいます。

 

matsumoto:バタイユは、そうした背景から人間について設定的に説いた文学者でした。

紹介された書物「文学と悪」は、バタイユの作品が次々と生まれた晩年の作品です。

「文学と悪」は1957年に出版されていますが、同年にバタイユの大傑作の作品「エロティシズム」が出版され、最後の書物は、1961年に「エロスの涙」が出されました。

バタイユの素晴らしいところは、ホロコーストや世界大戦を単なる歴史観で終わらせなかったことです。

人間を善ではなく悪から見るという思考は、人間はあそこまで残虐になる真実が、バタイユの恣意的な思考により、思考の最高潮に達したのだと思いますね。

 

tak:松本さんがバタイユに影響されているのがとてもよく分かります。

バタイユの書物を読んでいくうちに、松本さんが書いた作品ではないかと錯覚するほどに、松本さんととても思考の上で近い存在なのが、私にとってバタイユです。

バタイユが文学について説いている表現があります。

「作家が<書く>のは、人々に向かってである。それは自由を「隷従の拒否」を伝えるためである。」

「作家であることを貫こうとするならば、作家は目の前の共同体と断絶し、無理解にさらされながら、孤独に死んでいくことも宿命として引き受けなければいけない。」

という表現ですが、松本さんの作家の定義や役割と差異があるなら、教えて頂きたいです。

matsumoto:バタイユは作家と孤独をうまく関連させていますが、まず孤独とはどのような状態を指すのかを問う必要があります。

そして、共同体から断絶することが、決して自宅に引きこもってネットを見るのではないことを理解する必要がありますね。

先ほどバタイユの表現で記述がありましたが、文学は悪を説き、それは道徳がないのではなく、超道徳を意味するというのは、バタイユがいう作家と孤独の繋がりは超孤独だと言いたいのだと思います。

 

孤独を超えたところの超越した孤独は、人間の主体が他者との繋がりがありのままであり、余計な思い込みのない、私たちに内在されたままの内的感覚のことを意味します。

 

tak:なるほど。松本さんの世界が素晴らしく深いんだなと改めて痛感しています。

松本さんは作家になるために、幼少期からさまざまな経験をし、自己というものが他者から分離され、それがまた他者に繋がりを求める方向に松本さんの思考があるのでしょうね。

これは、エマニュアルレヴィナスが提唱する主体は他者に影響を受け、それによって、主体は他者に優しくし、救うことと一致します。

松本さんが書く文学は、いま現在の直木賞や芥川賞を遥かに超える作品になるのでしょうね。

バタイユの記述で、場合によって死をもって伝えるという宿命を持つのが、作家だということに、生のエネルギーを感じます。

それぐらい作家は人間にとって必要な存在となるんですね?

 

matsumoto:ホロコーストが背景にバタイユは世界観を広げました。

私たちは、戦争を体験しましたが、いまはその経験は私たちの生活に何も残っていません。

日本政府は、戦争を世の中の隅におき、私たちに思考させないようにしているので、戦争があったことは、若い世代には完全になくなっています。

日本人が追いつける表現にしなければ、読んだとしても、日本人の個の世界が追いつけず、思考の刺激にならないと思います。

 

tak:確かにそうなんでしょうね。若い方がゲームやカフェとか、都会化によって、洗練されている人工的な遊戯がたくさんあるから、明るく振舞ってますけど、若い方は本音は違うところにあると思うんです。

日本人には日本人のホロコーストがあるんではないかと思ってしまいます。

松本さんの女性的な展開と主人公の主体性が、読者の苦しみを解放し、救ってもらいたいと切に願っています。

だから、バタイユのエロティシズムの世界が必要です。

バタイユは生と死、禁止と侵犯、人間と動物を続々とスリリングに問いを投げ、説き続けました。

いつも松本さんの話を聞くと、バタイユに近いなと思います。

 

さらに、バタイユの作家について、松本さんに問いを続けますが、次のようなバタイユの表現があります。

「作家は自分が有罪だとわかっている。作家は自分の間違いを認めることもできるのかもしれない。しかし、作家は情熱の享楽を要求することもできるのだし、それは選ばれた者のしるしである。」

です。バタイユは作家を有罪と捉えています。人間の内面が真実に近づくにつれ、侵犯が始まっています。バタイユはそこから悪こそ、人間のエネルギーであり、エロティシズムだと定義します。

松本さんの見解はいかがですか?

matsumoto:ここ最近出された、いわゆる賞を獲った小説を少し見てみると、バタイユがいう有罪になるほど、人間の本質を侵犯できていません。

大衆に添った、大衆が安心するようなストーリーになっています。

つまり、ストーリーになっているため、読者は感情をおいたまま、ストーリーを追っていきます。

感情と関係のないところでストーリーが思考の周りを動くため、そのストーリーの主人公は、読み手にとって客観性を持たないため、主人公に寄り添うこともありません。

バタイユが人間を深く観察して生み出した作家は、主体と客体が感情の中で切り替わりを作り、ときおり読者の自我がぶつかり合って、自我がエスやエゴに繋がっていくのが、本物の文学ですよね。

私は、バタイユからこうして文学について継承されましたので、日本人に合った、現代に合った文学にするのが、私の使命ですね。

tak:なるほど。バタイユは、情熱の享楽と言ってますが、松本さんはそれを文学で表現しようと思いますか?

または、表現したいと思いますか?

 

matsumoto:私は絶対に必要な要素だと考えます。小説に愛を題材に入れるのは、愛は形がなく、無機体にも有機体にも変わっていくものです。

愛は失われることを前提にするので、愛があっても人が死を迎えれば、愛はそこで終わります。

しかし、残された人は、その愛が心の中で生き続けるかもしれません。

そうなれば、愛の対象がこの世から消えても生き続けます。

そして、その人も死を迎えれば、愛は完全にこの世から消えますので、無機体であり、有機体でもあります。

愛を文学に入れるのは、読み手が物体のないエネルギーレベルの感覚を文学だと機能させることができます。

それは、ある人の個の中の情熱であり、それが文学で表現できるなら、そこで遠く離れていても、育った環境が違っていても、享楽することができるのは、言葉を巧みに変化させられる文学だけでないかと思います。

 

tak:私も陰で作家になろうと思いましたので、松本さんとバタイユにいろいろな人間の本質と文学の構造を聞いて、密かに拝借させて頂いています。

いまお聞きして、日本人に最も必要なことが、情熱の享楽ではないでしょうか。

経済活動が基本となりすぎて、私たち人間の内面性は失われています。

日本人は本物の文学に触れたことがないため、想像力も高まらず、大衆向けの小説に手を出す選択しかありません。

松本さんは、現代文学をそこから根底に還元し、文学は人間の感情や欲求から生まれ出て、人間なら誰もが持つ表現だという本質を伝えることができるだろうと思います。

 

matsumoto:ありがとうございます。バタイユはフランスですので、フランス人は代々書物を読む慣習があって、街でスマホを使う人はほとんどいないそうです。

フランスで電車に乗ると、ほとんどの人が本を読んでいるそうです。

バタイユたちが残した文体がフランスではいまでも継承されているからそうなんだと思います。

私たち人間は、情熱の享楽を経験すると、またその内在された人間が根本的に持っている情熱が欲しくなります。

それが、文学の本質です。

バタイユはホロコーストや世界大戦を目の前で経験し、人間をそれまでの構造的な見方を覆し、乗り越え、文学に絡めたところが凄いのです。

私は、バタイユの命を受け、今日から文体の研究に力を入れたいなと思います。

 

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tak:さらに、松本さんに作家として、ピッチを早くしてもらうために、問いかけを続けます。

バタイユは、次のような社会構造にも斬り込みを入れています。

「この運動(未来を計算しながら持続していくことの拒否)の中で、最も注目に値するのは、こうした教えが、キリスト教の教えーもしくは古代の宗教の教えーとは違って、それを自らの基盤に据えるような秩序ある集団には向けられていないということだ。                          それは孤をした、迷った個人のためのものであり、この個人に瞬間においてのみ、何かを与えるのである。                                                       それは単に文学なのだ。文学とは自由で非有機体であり、それが伝えられていく道なのだ。」

とあります。

ね、さっき松本さんが言ってた文学に対する見解にそっくりです。

私は、霊長類の起源と人間の関係について、いま調べてるのですが、ダーウィンが提唱した自然淘汰説ではなく、突然発生説が有力で、文化が先にあってそこに適応し、ホモサピエンスになったのではとそういう見方から人類を見ています。

それと同じように、理由は分からないけど、この世の文明の中に生まれた私たち人間の有機体は何らかの作用を生みます。

だから、松本さんはバタイユと共有できる有機体を持った人間ですから、作家宣言したくなる気持ちは、非有機体の動きなんだろうなと私は感じています。

matsumoto:またまた、いつも私を高めて頂き、嬉しい限りです。

文学というのは自由であり、社会の縛り付けは受けるべきではありません。

文学がそこに近づかなければ、私が目指している世界平和に繋がってきません。

それだけ文学は人間にとって、社会にとって、地球にとってもかなり重要なものです。

いま日本では、文学は出版社を通じて発表しなければならず、ビシネスマーケットを介されてしまうのです。

売れるものは本物ではなく、大衆と同じ目線の内容になっているため、文学とは言えません。

文学は大衆やビシネスに関係なく、自由でなければ、無限に近い私たちの想像力を掻き立てることができるはずがありません。

tak:なるほど。バタイユは自身の経験を自分のためでなく、他者を通じた自分に直面させ、さらにそれが非有機体の作用により、誰に対しても繋がりを持てるのが、文学であると説いているのですね。

このバタイユの記述にあるキリスト教や古代の宗教のような秩序の中の基盤でないスタイルが文学という表現をどのように捉えたらいいですか?

 

matsumoto:そうですね。おそらく、バタイユはナチスドイツの構造には人間の秩序があったと捉えていて、秩序というのは一種の社会が決めた合理的な全体主義に繋がります。

そこからバタイユは、文学は全体のものでなく、徹底して文学は個のものだと言い切っていますね。

キリスト教や古代の宗教から生まれたそれまでの文学をすべて否定しているように感じます。

ナチスドイツが起こしたホロコーストは、バタイユが研究した結果、キリスト教や古代の宗教が人間の根底の価値基準になっていることを言いたいのでしょう。

 

tak:バタイユは、プロパカンダに流されてはいけないとも、他の記述にありましたが、当時はナチスドイツがあれだけ大きくなるまでに、全体主義の流れと文学が結びついていたのですか?

 

matsumoto:それは、往々にしてあったのだと思います。バタイユは、ナチスドイツに反する文学であってもいけないとも言っています。

それがどんなに悪意のある政治団体であっても、文学をそれらの批判のために使うべきではないということです。

 

tak:なるほど。松本さんの説明は分かりやすく、理解しやすいですね。

ナチスドイツが活発化したあの1940年頃、全体主義や帝国主義の勢いが凄かったんですね。

松本さんと対話をしていくと、あの当時を私は経験していませんが、あの当時の誰も止められない空虚な空が想像されてきます。

私たち人間は、個という主体を持っていますが、どんどん個より自分たちが制御できない全体が勢い良く先導されていたなんて、かなり恐ろしいなと思います。

 

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matsumoto:やはり、あの当時に、フランスを中心に多くの文学者や哲学者が意味深い書物を発表しているのは、ホロコーストの影響が大きいですね。

そんな中で、バタイユだけは、独自の思考を展開し、ラスコーの壁画を観察し、私たちの祖先がまだそれほど道具を使ってなかった頃の壁画から読み取れることを探したり、人間が動物に対する脅威から人間は形而上学を高めたなど、バタイユは真実をかなり追求した、優れた作家だと思います。

tak:バタイユを研究している学者の書物を読んだのですが、バタイユは悪に行き着いた後、それを「至高性」にしたのは、バタイユが世界唯一だとありました。

至高性という言葉をバタイユを読むまで、私は聞いたこともなかったんですが、意味を調べると、「至高」はこの上なく高いという意味で、「至高性」になると、そのものが非常に優れたものとなっていました。

これは、悪に到達すると、人間の本質が見え、そこに人間としての最も高貴な構造レベルがあるんだと解釈すれば良いのでしょうか?

 

matsumoto:バタイユは最終的に至高のために、人間は悪を求めていくと言ってます。

要は、たとえ人を殺す犯罪であっても、人は自分の存在価値を高めるための行動であると考えているみたいです。

そうなると、ナチスドイツのヒトラーは、ユダヤ人を大量迫害したのは、それも自分たちの存在価値のために行なった至高なんだと考えられます。

ここが深い見識と解釈が必要となるのですが、悪が至高のためとなると、ナチスドイツが行なった行動を容認するのかとなってしまいますが、人間がこの世界で起こすことはすべて、何らかの痕跡を残す行為だということです。

バタイユは、ナチスドイツや世界大戦で他国を帝国主義の理屈で、次々と植民地にした現実を見て、人間は単純に善のために生きているわけでないことが見えてきたのです。

だった、善でなければ何なのか?とバタイユは真剣に問いかけたところ、キリスト教や古代の宗教の陰にあった、善と対立していた悪を見つけ出しました。

バタイユの功績は、ナチスドイツや世界大戦の経験を人間に活かしたことです。

多くの人は、戦争を起こす人間に問題があって、社会の枠組みで反戦運動に発展していきました。

しかし、バタイユはそれでは文学の定義であった、秩序の中に文学は入るべきではないに繋がってきます。

多くの人は、人間を善から見る形而上学を棄てきれず、善の見方から反戦運動や反ナチスドイツになったのでは、やってることはそれらが起こる前と何も変わりません。

バタイユは、独自の人間学により、キリスト教や古代の宗教に隠された真実を引き出しました。

 

tak:ということは、ナチスドイツや世界大戦は人間が起こしましたが、人間にはそういう行動をする構造があるという意味になりますよね?

世界大戦を受け入れたように聞こえ、反戦運動をしっかりやってる方々に反対されそうな表現になってしまいますね。

 

matsumoto:素晴らしい問いですね。

バタイユはこの反戦運動にも危険性を感じ、プロパカンダは逆の動きにもなっていくといい、そこで個の構造に働きかける文学が必要だと言ってます。

反戦運動でデモをしても何も変わりません。

これは、私の強いビジョンですが、文学で世界平和に繋がればいいなと思ってるんです。

そのためには、バタイユが言っているように、私たちは悪に直面すると、そこに人間の根本があるので、誰もが人間が潜在的に持つ悪からの至高が出てきます。

そこは、文学でしか近づけない領域で、どれだけ社会活動をしても、個は埋没され、やがて集団化して、全体主義に陥っていきます。

 

tak:本当ですね。松本さんのバタイユの解釈は分かりやすく、腑に落ちています。

やはり、松本さんとバタイユは宇宙から放たれた分子が細胞構造において共通しているんだと思いますよ。

文学の必要性、そして重要性がとてもよく分かりました。

バタイユは次のような記述がありました。

「人間の[自由な部分]という本質。それを表現する文学は政治的要請に優先する。」

といった記述です。

世界平和を目指すには、反戦運動よりも先に文学が優先されるべきで、バタイユの強い至高性から考えると、選挙なんかより、文学の方を優先した方が、政治からより、世界平和に繋がるのではないのかなと思えてきました。

 

matsumoto:本当ですね。私たち日本人は、本質的な文学を知りません。戦後も反戦の小説は度々出てきましたが、大衆向けにシフトしてしまうので、バタイユが求める至高は満たされていません。

文学が本質をついているなら、私たちは自分の内面にある内在性に悪が存在することが気づけたら、世の中はかなり変わってくると思います。

バタイユが少年を大量殺害した「ジルドレ論」書いたのは、それが理由です。

人をむやみに殺すことに意味があるのかないのかを研究しました。

私たちは、善の価値観で生きているため、人を殺すことの意味を問うのは、いまの現代では確実にタブーとなっています。

バタイユが取り組んだように、人間の本質は悪だと分かれば、犯罪を犯し、刑罰を果たした後、出所した後に、周りの差別がなくなり、再犯率が大幅に減ってくると思います。

出所した後も、ネット社会ですから、個人情報が出回り、職を失ったりで、それによって貧困となって、また自分の居場所を求め、犯罪を犯してしまいますが、人間の中の悪に向き合えば、そのような人たちを救えば、回り回って、犯罪が減り、世界平和の一歩になっていくと思えますね。

 

tak:松本さん、本当に私は知らないことばかりです。私自身を振り返ると、人間を信用するのは善の形而上学からきているなと思います。

社会活動の場で、少しでも非人間的なところが見えたら、私はその人を差別した目で見ていそうです。いや、確実にそうですね。

そうやって、人間の個性は失われ、みんな同じ意見にしなければとなるなら、それはまた全体主義に匹敵する世の中の流れになってしまいますよね。

 

 

 

written by 萩原

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