難波座裏「イタリアンバル。ピエーノ」にて

VEN WORK MAGAZINE / GOURMET

難波座裏「イタリアンバル。ピエーノ」にて

目をしっかりと見開き、意識を内部と外部にほどよく、バランス良く、均等に見つめながら生きること、それが理想であるのは分かっているし、そうしたいのも知っている。

しかし、目先に吊るされた過剰な情報に途方に暮れ、安易で権威的な成功話に気を取られ、自分を見失う毎日。

ベンワークウェアを個人で営む松本と、フリーパーソナルトレーナーで活動する萩原は、哲学こそ、世の中に自己を埋没させず、自己を高め、自己を回復させる唯一の過程ではないかと、信じている。いや、信じている以上に、目先に流されやすい現代人である私たちであるけれど、哲学にかんしてはなぜか確信がある。

私たちは、それぞれの土俵で日々闘い、目標は週一回二人で弁証法という対話方式で、対話を繰り返し、自分たちの思いをまとめ、それを哲学にしようと、試みている。

その内在する意識にもちゃんと姿が見えるぐらいの私たちにとって、とても鮮やかに見える哲学を深めた後の、何とも言えない内在する生きようとするエネルギーを体感しているから、哲学をすることに確信を得ているのだろうと思える。

私たちが求めるのは、哲学を確立することが目的ではない。さらに向こうに広がる世界平和。この聖なる旗を立てるまで、対話に妥協なく、やり続けようと思っている。

 

tak:松本さんは、以前よりさらに忙しくなっていますが、作家宣言されましたが、そのあたりは執筆は進んでおられますか?

松本さんは個人でお仕事されてますし、時間って限りがあって、時間は追われるほど、時間感覚は短く感じますし、逆に時間に追われないと時間感覚は長く感じてしまって、何もできない現象が生まれてしまいますが、お仕事と執筆の活動のバランスはいかがでしょうか?

 

matsumoto:いきなり、私の生活を見抜かれているような質問で、腰が抜けそうになりますが。

そうですね。本業の作業着販売はお陰様でかなり忙しくなっています。次のアイデアを試行錯誤したりすると、仕事の通常の作業と並行して執筆するのは、そう簡単ではありませんが、時間の隙間を見つけては、文体に少しずつですが、やっていますね。

 

tak:さすがですね。松本さんと松本さんのお仕事の話をすると、仕事から話がお客さんが求めている気持ちについてお話が出た後、やはりそこには世の中を懐疑され、いつも問いかけ、現状に対して、苛立ちを高まっている話の展開になっていますので、私の狭義の不確かな視野ではありますが、松本さんは作家に向いていると思います。

 

matsumoto:萩原さんにいつも励まされ、叱咤激励も入るため、仕事に追われて終わりそうになる一日の中で、執筆の時間は少しずつ確保できています。

 

tak:話は、哲学の話になりますが、最近私は松本さんとのこうした対話方式に私自身の不足した知識に限界を感じているため、図書館に時間を見つけては通い、さまざまな角度から哲学を調べていってます。

そこで、出会った哲学者がジャックデリダというフランスの哲学者です。読み込むと、そこには言葉の魔術のように、一つの言語の単語に対して、意味を狭義にも広義にも、それを同音異義にしたり、対立させたり、かなりの凄腕です。

私は、今日まで松本さんの影響でバタイユに傾倒していましたが、バタイユは松本さんのこれまでのお話のお陰もありますが、私自身の感覚に寄り添えるのがバタイユでした。

バタイユを読めば、頷けることばかりで、新しい思考にはならないなと思い、バタイユの書物を読みたくて仕方がないのですが、苦肉にも、その文体の宝庫を置いています。

そして、バタイユ以外からもっと哲学を知ろうと思ったときに出会ったのが、ジャックデリダです。

松本さんは、ジャックデリダを読んだことは、もちろんありますよね?

 

matsumoto:はい。デリダを読んだことはありますが、一、二度何冊か目を通しました。バタイユは書店や図書館に行くと、哲学のコーナーより文学のコーナーに置かれてるように、バタイユは哲学者として認められていないようです。

バタイユのイメージは怪奇な異常性、そしてよく見られているのが蕩尽(とうじん)という表現、これは自由で湯水のように性や欲に溺れていることを意味し、バタイユは哲学も入っていますが、文学の位置付けですね。

私は、そんなバタイユが大好きで、よく読みましたが、一方でデリダは文学の要素はなく、哲学が中心ですので、私が求めている文体ではないなと思っていました。

萩原さんがあるとき、デリダの書物を買ってみたと聞いたので、私は持っていたデリダの書物を読み直したという経緯がありまして、構造主義を深めたのは、言語学の起源を構築したソシュール、フィールドワークによって原住民の研究をした文化人類学のレヴィストロースと共に構造主義を考えるにはなくてはならない人物ですね。

 

tak:なるほど。松本さんは西洋哲学の有名どころの哲学者の書物を大半読まれていますよね。いつもそうした松本さんの真面目さに私は影響されています。

ところで、デリダは「脱構築」「差異」「差延」という言葉を作りましたが、私はデリダを読んでもまだなかなか理解できませんが、松本さんの中で、これらのデリダ用語についてお話頂きたいと思います。

 

脱構築とは?

デリダによる脱構築
あるテキストがある事柄を伝える内容として読めるとき、それとは矛盾を起こす別のパラドキシカルな内容がテキスト中に含まれているとする。

マルティン・ハイデッガーの『存在と時間』において西洋の形而上学伝統が論じられる際にあらわれる「Destruktion」の仏語訳として採用されたもの。デリダは、直訳の「解体 Destruction」がもつ破壊的で否定的な意味合いを避け、「脱構築 Déconstruction」(dé-「分離、除去」 / construction「構築、建設」)を造語した。その意味で、彼の脱構築はハイデッガーの試みを継承するものと言える。

脱構築は、言葉の内側から階層的な二項対立を崩していく手法である、といえる。それはすべてを併置し「と」という接続詞を重視するドゥルーズの思想と呼応する。デリダは、プラトン以降の哲学が、王探し、ロゴス中心主義に陥っているとし、また、エクリチュール(書き言葉、デリダにおいては二項対立で劣位に位置する概念全てに当てはまる)に対するパロール(話し言葉、王の言葉。エクリチュールとは逆に、二項対立の優位に位置する概念)の優越を批判した。とはいえ、この批判は、エクリチュールのパロールに対する優越を意味するのではない。それでは単なる階層的な二項対立の優劣逆転に過ぎない。

ヨーロッパで伝統的だった階層的な二項対立の形而上学システムは、こうした脱構築によって批判される。脱構築によってデリダは、二項対立によって回収されえない他者(差延)へのまなざしを呼び起こし、さらなる哲学の活性化を目指そうとした。したがってデリダの真意は形而上学の転覆にあるのではなく、むしろ真の意味での形而上学の新たな可能性を開くところと見るべきである。

脱構築は、哲学のみならず、人文系・社会系の学問でも広く応用され、有力な批評理論の一つともなっている。」

 

matsumoto:「脱構築」は、差異と差延の間にあると言われていまして、構築するされている全体を為すもの、例えば現代でいうなら、現代における社会や政治、経済を含めた全体のカテゴリーに刺激を与え、それらを揺らし、そのときに決して破壊させるのではなく、差異を作ると、そこには差延が残り、その部分に徹底的に入り直すと、デリダが言っています。

 

tak:松本さん、なかなか難しい論理ですが、今ある全体に全体として見るわけですよね?

 

matsumoto:そういうことです。私たちは全体になっているものを当たり前として捉え、それに対しては動きがないわけですので、全体のままの見方で放置するなら、差異は生まれません。

フランスでは脱構築の動きは20世紀初期から始まりましたが、私たちの日本では脱構築の思考も発想もありませんので、デリダの考えを深く理解し、私たちに導入しなければいけない哲学です。

 

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tak:なるほど。デリダの書物に「精神について」というものがあるのですが、その副題には「ハイデッガーと問い」とありますが、ハイデッガーの存在論も、デリダは影響を受けているのでしょうか?

 

matsumoto:はい。その通りです。

デリダを考えるには、言語学の起源を考えた記号論の始祖であるソシュールから始まっていて、デリダはソシュールの記号論的な言語に対する解釈が、差異を生ませて、そこで初めて意味が発生するとし、そこからデリダは差異や差延という独自の表記を作り出しました。

 

tak:やはり。ソシュールは西洋哲学には欠かせない人物で、西洋哲学を新しく見方を変えた人物としても、外すことはできませんね。

デリダを読んで、私が難しいと思うのは、ソシュールについてあまり知らないからなんでしょうか?

 

matsumoto:はい。そうだと思います。

先に挙げた文化人類学のレヴィストロースもそうですが、ソシュールの言語学の起源の辿り方を参考にして、フィールドワークを行ない、さらに言語学者のヤコブソンにも出会って、音韻論を学び、親族の構造を引っ張り出して、脱構築し、「親族の構造」という書物を出版しました。

レヴィストロースが参考にしたのが、ソシュールの脱構築であり、音韻論はそれまで中心だったロゴス中心(論理的に語られたもの。キリスト教では父のイエスが子に語るというものでキリスト自身を示す表記)に対して、批判をし、言語はあくまでもモノとモノを繋ぐために恣意的に考えられたものだと説きました。

レヴィストロースや今回取り上げているデリダは、こうしたソシュールの音韻論からデリダ流の脱構築を完成させたきっかけになったのです。

 

tak:ソシュールもそうですが、ハイデッガーにも影響を受けていますか?

 

matsumoto:はい。デリダはハイデッガーの1927年に出版した「存在と時間」を読み尽くすほど読んだとされていて、さらにハイデッガーに批判を入れているのもデリダであって、ハイデッガーの思考に入り込むことで、それまで説けなかった人間と存在との差異について理解を深めたみたいです。

 

ハイデッガーは存在論を組み立て、そこから存在論的解釈によって、当時まで引き継がれていた伝統的な形而上学の解体をしましたが、デリダはさらに先を予測し、ハイデッガーが問えていなかった存在から精神について、「精神について」の書物では、ハイデッガーに向けた脱構築をするデリダらしさの思考の展開が見られますね。

 

「私の知る限り、ハイデッガーは一度もこう自問しなかった—–「精神とは何か?」と。少なくとも、彼が次のような問いに与える様態で、形式で、数々の展開を加えた形で自問したことは一度もない——「なぜ無ではなく何ものかが在るのか?」、「存在とは何であるか?」、「技術とは何であるか?」、「思惟とは何の謂いか?」など。いわんや彼は精神を「形而上学入門」がその正当化を認めないような一種の存在の限定の中で、形而上学なら存在に対立させたであろうような彼の大きな極の一つにしたこともない—–存在と生成、存在と仮象、存在と思惟、存在と当為または存在と価値。まして彼は、形而上学の最強かつ最も永続的な要請に従って、弁証法的にであれ、精神を自然に対立させたこともない。」(ジャックデリダ。精神について。ハイデッガーと問い)

 

tak:このテクストを読むと、ハイデッガーに対して、ハイデッガーを知り尽くした上で、ハイデッガーを批判して、問いかけていますね。

松本さんが提案して頂けるテクストや命題というのは、私は松本さんに知り合えて恵まれていますが、大半の人は、このようにして思考の過程を見直しながら、自分と向き合う経験がないのは、大変勿体無いことですね。

このテクストから、ハイデッガーに影響を受けた上で、ハイデッガーは精神について説いていないことを、批判するのは、このような過程をしながら、デリダはデリダ流の脱構築に築き上げたのですね。

 

matsumoto:その通りです。デリダは2004年まで生存していましたので、印刷技術の発達で20世紀の哲学者の中ではここまで他の哲学者の書物を読んでいたのは皆無ではないでしょうか。

そういうところからも、デリダが難しいとされるのは、あらゆる他の哲学者の論理がデリダの思考に残っているため、デリダ流の脱構築はパーフェクトに近い差異と差延を生んでいるように思えます。

 

私たちは、このようなデリダのように、哲学の歴史をソクラテス以前、ソクラテス、プラトン、アリストテレス、デカルトとカント、ヘーゲルなどの哲学者が残した遺命を引き継いだという興奮作用があったのではないかと思います。

 

tak:脱構築というのは、ハイデッガーの批判を見ると分かるように、ハイデッガーが説いた存在論でさえ、説いたときからもう差延は始まっているのではないかと感じますが、差延というのは、そう捉えていいのでしょうか?

matsumoto:はい。西洋哲学はキリスト教が形而上学として長く支配し続けてきましたが、それはデカルト、カント、ヘーゲルはそこを覆すことはせず、むしろ形而上学に入っていき、人間を説きましたが、デリダはちゃんとキリスト教に対しても脱構築を試みました。

ハイデッガーは最終的にナチスドイツに加担したことで、デリダはそこも引き合いにして、ハイデッガーは形而上学の解体に到達しなかったと考えているようです。

 

tak:松本さんが私が哲学を始めたとき、西洋哲学が体系的に紹介された書物を私に見せて頂き、興味が出たときにその人物に着目したら繋がりが見えてくると、言っていましたが、それが今日までかかりましたけど、その意味が分かってきました。

デリダを読んで私が難しいと思うのは、デリダが影響受けたハイデッガーやソシュールのことを知らないのが、デリダの難解さと読みにくさを生んでいるのでしょうね。

 

matsumoto:デリダの脱構築は、構造を揺らすことで、現存在するすでに過去と今のズレがあるものが差異として生まれ、それを追い続けるのが差延だと言っていて、表記では名詞ではなく動詞系の「diffère 」としていて、終わりがない遅れであると言っています。

現に存在するものをモノのまま捉えるのは、形而上学となるため、そのモノに対して揺れを作り、徹底的に論理として入り込み、構造は壊さないようにして、バラバラにすると、次に見えるのが現存在であります。

その現存在を追っていくと、存在というものは、絶えず追いかけても追いかけても、今を追うことはできず、必ずズレが生じ、それがデリダが行き着いた永遠なる「diffère 」である差延だと言うのです。

 

tak:松本さんがデリダを脱構築して頂けるので、デリダのテクストの命題が少しずつ見えてきました。

ハイデッガーはある意味、現存在という存在論まで説くことができ、それはデリダが批判するように、常に現在進行する精神までは問わなかったというのが、デリダはそこを乗り越えたのがデリダ流脱構築ですね。

ずっとデリダの話を松本さんから聞いていて、この脱構築は私たちが生きている今、価値があるのかどうかを考えています。

私はデリダを現在の日本に活かしたいために、すぐに読んで自己陶酔してしまう自分を満たす誘惑を抑え、難解なデリダを読んでいますが、松本さんは文学に重きを置いていますが、改めてデリダの脱構築は今の日本に必要ですか?

 

matsumoto:私はデリダを最初読んだとき、さっきも言いましたが、文学的でない文体に違和感を感じましたが、今こうして萩原さんと「脱構築」について、考え直していきますと、デリダの難しさを超えることで、文学よりも何よりも最先端にいるのではないかと感じました。

 

私たちの日本に必要なことは、デリダ流「脱構築」なのかもしれませんね。一般的にデリダを知る人はほとんどいませんし、フランス哲学を研究する学者の地位や志向で止まっているため、日本の一般人に伝えるための、新しい文体があるのなら、それは日本人にとって最も先にやるべきですね。

 

「われわれの命題の全体をしかるべく提出するためには、確固とした明確な出発点を採用しなければならないだろう。だか、われわれがあきらかにしようとしていることは、言語学においては、たったひとつであっても、即自的に規定される事実を認めることは誤っているということにつきる。                                     したがって、あらゆる出発点の必然的な不在ということがほんとうにあるのであって、本書の最初から最後までわれわれの思考を注意深く跡づけようとしてくれる読者がいるならば、そのひとは厳密な順序をたどることがいわば不可能であったということを認めてくれるだろう、とわれわれは確信している。           われわれは、さまざまなかたちで三回でも四回でも、あえておなじ考えを読者の眼前でくりかえすことになると思う。というのも、論証を基礎づけるために、ほかの出発点よりもよりふさわしい出発点などというものは、じっさいひとつも存在していないからである。」(ソシュールの実際のテキストより)

 

 

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tak:なるほど。こうしてデリダのテキストに近づき、私たち自身を近づけるために、デリダが影響を受けた哲学者に還りつつ、またデリダに入っていくという展開ですね。

今挙げて頂いたテキストは、ソシュールのものですが、これを読むと、ソシュールが言語学を説き始めたときには、まだ何も言語学について発展はしてなかったという背景がこのテキストから示唆されますね。

matsumoto:デリダを知るためのソシュール。またデリダを知っていくと、それがまたソシュールに繋がっていたり、さらに昔の書物であるプラトンやデカルトに関連していたり、こうして見ていく持続が、私たち自身の思考回路を新しくして、今の世の中に対する「脱構築」になっていくのです。

 

このソシュールのテキストは、1894年ごろ書かれた言語学のエピステモロジー(認識論)に関する実現されなかったテキストです。

ソシュールが言語学を学んだとき、すでにある言語を民族史に関連させる部分が強調された学問が中心でした。

ソシュールはいきなり、世界に無数の言語があることを調べて発表する言語学しかない現状を知り、彼は「言語の学」なるものの存在の自明性を疑うことから始めざるをえなかったのです。

 

tak:松本さん、よく聞かなければ、見えてこないのですが、要は、ソシュールは言語の起源を追求しようとする意志が崩れるほどに、その当時、まったく何も言語学は発達していなかったということですよね。

そして、ソシュールは言語そのものの存在から問うことが目の前に現れたというわけですね。

よく思えば、ソシュールにとって言語学の未発達が彼の一生をかける学問としての使命感生むだとも言えますよね。

ひょっとすると、彼にとっては、運命を変える現実だったのでしょうね。

matsumoto:まったくその通りですね。

ソシュールが言語学として研究をスタートする前に、「存在と時間」のハイデッガーがテキストを出していましたので、西洋哲学はハイデッガーがそのときの思考の限界になっていた存在まで説いていたので、西洋哲学は新しい風が吹いていなかったのが事実です。

その流れを変えた天からの風向きがソシュールに吹き、その風はソシュールに吸収された後、差異や差延を作り、デリダに伝えました。

ソクラテスから続いた形而上学やイエスキリストの神と父の関係を見直すには、あまりにも思考の未熟性を覆すテキストがなかったのです。

 

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「科学というものは、明確に規定された独自の対象を獲得したときにはじめて成立したといえるのだということは、現代の科学認識や科学哲学が教えるところである。そういういいかたをしているわけではないが、ソシュールはそのことを十分に理解していた。ほかの諸科学を見よ、物理学にせよ化学にせよ生物学にせよ天文学にせよ、研究すべき対象は自明なものとして与えられているではないか、とソシュールはいう。空には星があり、さまざまな天文現象がある。天文学者は、こうしたあらかじめ存在する対象にたいしてさまざまなアプローチをおこなえばよいのだ。あるいは、生物学者ならば、世界に現実に存在する、あるいは過去に存在したもろもろの生物を研究対象にすればよい、というわけだ。         ところが、言語学ときたらどうだろう。いったいなにがあるというのだ。人々は四六時中ことばをとりかわしているし、世界には無数の言語がある。これを自明の事実としたところに、従来の言語学のいとなみはあった。」[力の思想家ソシュールより引用]

 

matsumoto:このテキストでは、ソシュールが言語学にはじめて触れたときの思考の状態をとても詳しく書かれていますが、同時期にソシュールと共に脱構築をした他の学者として、フロイトの「心理学批判」、マルクスの「経済学批判」と共に、ソシュールは「言語学批判」を行ないました。

ソシュールは当たり前に使用している言語に違う強度の光を与え、差異を作り出し、言語の起源にまで追求したのは、まさに天から照らされた菩薩の後ろから光る後光のようなものです。

その風向きは、ソシュールに吹き、それを吸収した後、デリダに風は新しい刺激で吹き、デリダ流の「脱構築」を生み出す源となりました。

 

こうした西洋哲学の話と、私たち日本人はこのデリダの「脱構築」をどのように結びつけるのかが、今後の課題であり、私たちが期待できる最大限の気づきになるのが分かります。

しかし、私たち日本人はデリダのようにものの見方をすることは不可能で、そのわけは、私たち日本人はずっと単一民族で生きてきて、世界と私たちを比べる機会はほとんどありません。

単一民族の良さが個性になることは確かにありますが、デリダのように、私たち自身に見つめ直すことで、私たち自身の内面的な差異を作り、そこから単一民族を超える時期が来ているように思われます。

そのためにデリダは、私たちに遠い国西洋から、日本人の形而上学を壊せるなら、そこからより一層、私たちが未来に向かってできる新しい思考となっていき、それが気づき、修正、更新、新しい思考となって、私たちの民族性を促進させられるのではないかと考えられることができるのです。

 

 

 

 

written by 萩原

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